下水もゴミも同じ廃棄物  1999.7〜10 多自然研究誌掲載
 

第一話−リサイクルは水で流すことから−
 

■下水をゴミにする責任転嫁

 以前この多自然研究誌に掲載された拙稿で、川や湖の水質を守るため、誰もが台所で出来る工夫(運動)には問題点があることの解説をした。流しの三角コーナーにネットを張り、野菜くずなどの生ゴミを濾し取ることとか、そのほかにも汚れのひどい部分は紙で拭い取って下水に流さないようにするとかの市民レベル・草の根の運動のことだが、それらは水質浄化の理屈からすると核心の対策となるのか問題がなきにしもあらずと述べた。簡単なことを言うと、下水道処理区域に入っていればそのような努力は余り意味がない(下水道管理者は下水中の汚濁成分が若干でも削減されるため、このような運動を歓迎するが、そのようなことでは職務放棄でないか)。少しでも下水道を整備、普及し、利用することが大切なのだ。

 私は下水道あるいは水質の専門だが、この2年間、ゴミ即ち廃棄物処理技術にも関わるようになった。下水、ゴミの両方とも廃棄物には違いがなく、前者は水溶性あるいは水で運搬される「ゴミ」と考えると、問題の行き着く先は同じである。

 両方の立場に立つと、上記台所での工夫はよごれを下水に流さないといっても(紙屑などに付着させ)結果的にはどうしてもゴミにすることだから、それは下水道問題を回避して、ゴミ廃棄物問題に責任を転嫁したことになる。ゴミ問題も最近はダイオキシンなど厄介なことが多く、思慮なく転嫁されても困る。
 

■専守下水道問題だがゴミ領域への侵略例

 ここで、人類一万年の基本的課題である排泄物処理問題。これは専ら下水道が受け持つべき問題には違いない。小さい方は比較的問題が少ないが、大きい方は後始末が大問題である。

 だいぶ前だが、インドネシアに仕事で行って困ったことは、ホテルは別だが町のトイレに紙がないことだ。代わりに水槽に手桶が備えてあり、それを使い左手でもって巧みに後始末をするのだ。筆者はそれがどうしてもうまく出来ず、トイレの部屋中を水浸しにしてしまった失敗が思い出される。現地の仕事相手の技術者に聞くと、日本人などが紙を使うのは不潔だと言う。水でないと完璧にきれいにならないからだ。紙がもったいないとは言わなかったが、それも理由であろう。

 日本でも最近はシャワートイレなるものが普及してきたが、この理由はやはり日本人も紙では不潔だと思っていたことかもしれない。後始末後進国の日本がようやく追いついたと言うことか。

 以上は本論に無関係、以下本論。

 この場合、後始末ペーパーは排泄物本体と同様下水の受け持ちとなる。ロールペーパーは水溶性だから支障ない。問題は紙おむつである。昔は布巾でおむつを作り、洗っては何回も使用できたのが、最近のお母さんはそれが面倒で、使い捨ての紙おむつが普及している。紙おむつは下水に流せないので、ゴミ問題に責任が転嫁されることになる。汚れた紙おむつそのものはゴミでゴミが増える問題点があるほか、トイレに流すべき排泄物を、そのままくるんでゴミに出してしまう不届き者が一部居り、それがゴミ収集関係者の作業環境の悪化につながっているのは例外かもしれない。
 

■水を使ってリサイクル

 渇水時の節水キャンペーンの結果、食器等を洗わなくて済むように、割り箸、紙製の食器など使い捨てのものの使用が盛んになることがあるが、これはゴミ問題になるし、第一資源の無駄遣いである。下水なら浄化後比較的容易にリサイクルが出来る。しかし汚れた紙などは燃やすしかない。節水キャンペーンとしては、水道の流し洗いをやめ貯め洗いにするとか、おおどころの風呂水の洗濯への再利用とかを押さえるべきなのである。

 渇水かどうかに関係なく、日本には昔から割り箸による食習慣がある。最近は、おしぼりも使い捨ての紙製のものが多くなっている(とだけ言っているのは甘く、コンビニなどへ行くと食品等のあらゆる容器が使い捨てとなっている)。塗り箸、あるいは布おしぼりであれば、水で洗って再利用が出来る。使用した水も浄化すれば、トイレなどの雑用水として再利用可能で、さらには地球規模で見れば海などに戻った水は蒸発後降水となり循環する。水はそのものがなくなるわけではないので、元々リサイクルに適した溶媒(汚れの運搬役)物質なのである。水の合理的使用こそリサイクルの模範だと思うが、各人が目先の利益を追うせいか、結果としてゴミを作る資源浪費型文化になりつつあるのは悲しいことだ。
 

■ディスポーザーこそ台所生ゴミ対策のエース

 生ゴミは週に2〜3回のゴミ収集日に出すことになっているが、ディスポーザーなるもので流しで粉砕すれば、すぐに下水として流せる(水溶性とはならないが細かく粉砕されるので、水で運搬できる)。これは責任範囲の観点で見ると、ゴミから下水へと言うことになるが、合理的なら責任「転嫁」とはならない。

 まず、生ゴミを収集日まで家庭内に止め置くのは、衛生問題となる。夏期には2日と言えど腐敗が進み、悪臭源となってしまう。くみ取り便所も悪臭源と同居するのが厭で、フラッシュバルブで一瞬のうちに居住空間の外へ運び去られる水洗便所に変えてきたのではなかろうか。生ゴミも同じことである。

 次に、ゴミ運搬の前時代・非効率性である。常時大量に輸送すべきものは、現代ではパイプラインによることが常識となっている。水道、下水道はその模範である。石炭より石油が優るのは、液体でパイプライン輸送(掘削時も)に適しているからだ。通常ゴミ収集車は運転手込みの3人一組の体制を組んで、毎週のごとく(道路が狭いから)運搬能率の悪い小型車で行われているが、その人件費たるや相当の額にのぼる。例えば東京都清掃局には約1万人の職員が在籍するが、そのほとんどは近代的な焼却場より収集・運搬の方に関係し、一人1千万円/年とすると、毎年1千億円の巨費がかかっていることになる。この金額は毎年永久に続くのである。下水に流せば運搬費はただ。下水処理場での費用はかかる(ただし、細かく粉砕されたと言っても個体なので、沈殿処理が容易)が、ゴミ焼却場での費用とそうは変わらない。

 家庭ゴミから生ゴミがなくなれば、残りは可燃物では紙類、不燃物は瓶、プラ容器、その他プラスティック類が主で、ほとんどリユース、リサイクル可能なものばかりになる(生ゴミもコンポストにすれば再利用が可能だが、分別不完全だと有害成分混入の恐れがあり、うまくいかない)。それも水洗いすれば汚れが少なくなるので再生処理が容易になる。そのため水使用量は少々増えるが、全体としては省資源となる。それらの収集も腐敗の心配がなくなるので、収集インターバルが自由に出来、収集費用も逓減される。

 以上ディスポーザーの合理性を縷々述べたが、普及しないのは、冒頭で述べたように、ユーザーに水質に対する異常な思い入れがあるか、下水道局からのディスポーザー自粛要請の宣伝が行き届いているかであろう。

 

第二話−火遊びでやけどするより、水遊びを−
 

■前回の問題提起など

 「多自然研究」読者諸氏には河川・湖の自然の基本である水質保全に関心を持つ方が多いと思われる。そのため、都市からの汚水が公共水域に入る前に適正に処理できるかどうかの下水処理問題が本誌での争点の一つとなろう。都市からの汚水には自分の家からのものも含まれるから他人事ではないはずだ。そのため下水にばかり目が行きがちだが、下水もゴミも廃棄物(問題)としては同じで、そのうち一つだけにしか頭が回らず、問題解決のためよかれと思っても、結果的にもう一方へのつけ回しとなる落とし穴があることと、水で廃棄物を運搬・処理する下水道という方式に、問題解決の手段として、もっと期待して良いことを述べた。

 
■水資源は循環型社会のエース

 リサイクルばやりの昨今だが、使ったものを再資源化する場合、マテリアル(物質)リサイクルとサーマル(熱)リサイクルの2つの方法がある。

 前者は材料として復活させるもので、古紙利用はその典型だ。アルミ等の金属類も同様で、溶融すれば、又同じ金属材料として使える。プラスティック類は様々な組成のものが混在することから元の材料に戻すのではなく、分解油化して違う利用に供しようとすることもある。

 後者はマテリアルリサイクルが出来ないもので、最後は燃焼して熱エネルギーとして回収(発電など)しようというものである。このいずれもが、最初のものを作ったエネルギーあるいは資源をある程度失う結果となる。循環といっても完全循環ではない。ただ単に(そのままか、あるいは燃やしてその残灰を)埋め立て処分するのに比較すれば前進であることは確かだ。

 リユースというのはリサイクルの一種だが、それとは区別した言葉となっている。容器等はその汚れを洗浄すれば、又同じ容器として再使用できるから、少しの洗う手間と水資源以外失うものはない。水資源は前回説明したとおり、完全再生可能な物質だから、リサイクルでなくリユースがベターなのである。まさに「洗えばまた使える」のである。

 水は物質(あるいは熱)循環(運搬)の立て役者だ。洗浄、冷却などの用途に使うということは、汚れを落とし、熱を奪うことだ。言い換えれば、溶媒としての特長から、ものの表面から汚濁物質を能く運び去り、比熱が大きい特長から、熱を大量に運搬することに他ならない。しかも運搬後、元の状態の水に戻すこと(処理することにより汚濁物質を分離し、あるいは冷却し熱をほかに移すこと)も容易に出来、再使用ができる。

 更に、水は常温で一番取り扱い容易な液体の状態となって、地球上の液体の大部分を占める最多資源(海水あるいは不純物を多量に含むと資源とはいえなくなるが)である。フロンのように洗浄能力は優れているが、地球環境に害をなすという欠点はない。

 
■世の中は水資源問題だけではない

 以前から、下水道を整備しようという時に、トイレが水洗化されることはよいが、そのために水使用量が増えるのは問題だとの主張が繰り返されてきた。しかし、し尿を満載したバキュームカーが町中に悪臭を振りまきながら走り回った昔と、下水道が整備された現在、地下のパイプの中を目に触れずに流れるのと、どちらを選択すべきだったかは、今となってはすべての人の意見が一致するところだ。し尿の運搬手段として、水は無二の媒体となってしまったのである。ちなみに、し尿そのものも体内老廃物が運搬された結果だ。人間が水を飲まないと生きていけないのは、水に体温調節(これも熱運搬)と共にこの不要物の運搬作用を期待してのことだ。

 ここで蛇足だが、フラッシュバルブで一瞬のうちに目の前から排泄物を運び去ることができるのも水のおかげだ。これは水の物理的な運搬作用だけを期待するもので、水質は給水パイプが詰まらなければどうでも良い。最近は、下水を処理した水を水洗トイレの用水に再利用する「中水道」の考えもある。飲める水で流すのはもったいないからだ。

 さらに蛇足だが、フラッシュバルブが悪臭源を一瞬のうちに運び去る最近の画期的な発明とすると、くみ取り式便所は、昔、し尿が貴重な肥料資源であったところから、水で運んで肥料の元を台無しにすることなく、重力の作用で悪臭源を一瞬のうちに遠ざける(落として運び去る)(私の命名は重力式)トイレだったのかもしれない。しかし遠くには行くが、臭いはゼロにはならない。おまけに「お釣り」と称される現象が解決できない。

 前回筆者が推奨したディスポーザーについても、未だ普及はしていないものの、すでに出ているその反対論も、水洗トイレの場合と同じ、貴重な水資源論からの立場を取る向きがある。しかし、ディスポーザーは使い方によっては心配するほどの追加水量を必要としなく、将来普及してみれば、生ゴミが町中で悪臭を発し、カラスがそれに乱舞する光景は昔話になるのかもしれない。

 要は、水資源確保の努力とそのおかげで達成される都市環境とのバランスの問題であろう。都市の生活を便利・快適にするために水資源を開発してきたという原点を忘れないようにすべきだ。

 
■水は豊富なときはどんどん使おう

 水道局の宣伝が行き届きすぎたのか、節水が人間生活の美徳になってしまった感がある。勿論、渇水の時には皆でその「希少」資源を分かち合わなければ社会が成り立たない。しかし、普段河川などに水が豊富なときは、節水などしなくても良い。使わなくてもどうせ海に流れ又降水となって帰ってくる循環物質だから、その循環サイクルの一部を失敬しても全く支障はないのである。勿論河川の水を、河川環境を変えてしまうほど、少なくしてしまうのは駄目である。しかし通常取水できる分は全部使って構わないのだ。要は水資源というものは、地域的あるいは時間的に偏在するというただ一つの欠点を持つが、完全再生するものだから、(遠慮する)時間と場所即ちTPOを考えれば、どんどん利用すべきなのである。使用を控える時間(T)とは渇水の時、場所(P)とは山の上とか砂漠の国とかのことである。

 節約は一般的に省資源で環境に優しいという気持ちからか、様々な節水の工夫を凝らし、他人にも暗に強制する向きがある。前述の山頂とか砂漠の国では物理的に水資源が限られているので、厭でも節水せざるを得ない。極端なことを言うと、人間は文化的生活とかを一切目指さなければ、一日2リッターの飲み水があれば生きてはいけるのである。しかし水資源がある程度豊富な日本では、風呂に入らず洗濯もしない不潔な生活に甘んじる必要性は全くないと言って良い。文化的な生活をしているのだから、水をある程度「豊富」に使って良い。我が国には昔から、「湯水のごとく使う」と言って、水はふんだんに使って構わない資源の代表としてきたのだから。(勿論、水を使う裏には場合によっては、取水・排水のポンプ動力のための電力などが必要で、それらエネルギーの無意味な使用になってはならない前提だが)

 
■川の水が現在でも汚いのはゴミのせい

 昭和30年代からの列島公害時代には、河川にありとあらゆる汚水が流れ込み、その水質は悪臭を発するまでの最悪のものだった。しかし、その後下水道整備が精力的に進められ、工場排水の規制も厳格に対処されたため、水質という面では格段の改善がなされた。環境基準は現在でも多くの場所で未達成だが、水の利用に重大な支障があるわけではない。悪臭がするわけでもなく、浄水処理すれば飲める水になる。

 しかし、それでも川の水がまだまだ汚いと感じるのは、主として河川に不法投棄されるゴミのせいもあろう。浮いて流れるゴミは水質以上に目立つし、水の透明度が増すと、皮肉にも、水底のゴミが見えてしまうからだ。ゴミは町に散乱したものが降雨のたびに川にまで流されることもあろう。水は人間が意図することなく、降雨という格好で、日頃住民が汚した町の隅々を洗い清め、かわりにそれが流れ着く川を汚すのである。これは下水道では「ノンポイントソース」の汚濁と称しているが、その大部分はゴミ処理を適正にして、町をきれいにしていれば、出てこなかったものであろう。

 町をきれいに、川を完全に清澄にするには、下水道とゴミ処理の合わせた努力が必要となっている。

 
■使ったものはなるべく燃やすのをよそう

 人間がものを燃やすことをその百万年の歴史で獲得したのは、暖をとるとか食物を美味しくするとかの積極的理由だったはずである。それが現在は要らないものを始末するために衛生処理とか減量中間処理とか言って燃やし、灰にしている。一昔前のようになるべく再生して使用するということをしなくなったしっぺ返しで、ダイオキシン問題などが起きている。燃料として木を燃やしている分には問題なかったが、ゴミを燃やすとなると種々雑多なもの(塩素成分など)が必ず混入し、野焼きあるいは旧式焼却炉などで高温連続で完全燃焼が出来ないと、ダイオキシンが必ず生成されるのである。ダイオキシンは環境ホルモンの一種で、非意図的生成物と言われている。無論燃焼に際し意図するはずはないが、不要物を安易に燃やし去ってしまおうという行為への天罰に思えて仕方がない。副題にあげた、「火遊びの末のやけど」というのがぴったりだ。

 
■燃やす技術にも進歩が

 ゴミをリサイクルし尽くしたあと残る最小限はどうしても燃やさなければならないとか、積極的にはゴミ焼却熱発電などの場合がある。火を使うことで他の動物より進化してきた人間だから、完全無害焼却が出来る燃焼技術にもっと進歩があって良い。このことについては次回以降説明したい。

 

第三話−問題解決は「気持ち」でなく、「技術」で−

 
■前回までの主張

 下水とゴミの守備領域がもともと決まっているはずがなく、水をもっと使うことにより、廃棄物全体の処理において合理的になれること、また、「水資源は循環型社会のエース」「世の中は水資源問題だけではない」「水は豊富なときはどんどん使おう」の各題で、水利用の廃棄物処理(水を廃棄物輸送の媒体とするのが下水道ということになる)が場合によっては有利になる理由を説明した。一方従来からのゴミを燃やすという方法では厄介な問題が生じることも述べた。

 これらは、一般に言われている正しい知識とは正反対のところもあるので、読者諸氏の反響を期待したい。

 今回は、廃棄物対策の技術(ゴミ、下水)の進展のあり方について、収集(運搬)、処理両面の関係から検証したい。

 
■大きいことはいいことか

 昔、CMソングで「♪大きいことはいいことだ…」というのがあった。しかし、下水処理場とゴミ焼却場について言うと、2次公害発生の恐れがあるので、それらの大きいものは特に、施設が立地する地元住民に嫌われる傾向にある。しかし、処理技術の都合から言うと、大きいことがよい場合もある。

 ゴミを燃やす際に発生してしまうダイオキシン類を出さなくするためには、理屈としてはダイオキシン化合物に不可欠の塩素源を絶つ意味で、いずれゴミになる塩化ビニルなどの含塩素の製品をなくすか、徹底的な分別収集により、燃えるゴミに混入させないことが考えられる。しかし、それらを完全に分離出来るかというと(製品によっては)不可能なものがどうしても残るので、以上の理屈は、現実問題としては、無理であることが分かっている。だから昨今市民運動的に盛り上がっている分別収集の努力は、最終処分量減少を目的としたリサイクル推進のためには是非必要だが、ダイオキシン対策の基本とはなるものの、それだけでOKという切り札にするには限界があると認識すべきだ。

 そうなると、ダイオキシン類排出抑制の決まり手は燃焼方法の改善にあり、高温(800度以上)連続運転による完全燃焼(と後段の排ガス処理過程における200度以下への冷却)がそれである。間欠運転だと、燃焼立ち上げあるいは火を落とすときに低温不完全燃焼になってしまうからだ。この場合、(地方部などで)収集エリアのゴミ発生密度が希薄だと、焼却炉がそれ相応に小規模になってはいても、連続運転するためには集まるゴミが少なすぎる問題がある。そのためゴミ量を確保する方法として、収集区域を広域化し、一つの炉に集約することが必要と言われる。集約した結果、より大きな炉になれば、燃焼環境を改善し、排ガス対策も容易に(経済的に)できるというメリットも併せ生まれる。

 ゴミ収集処理は地域ごとに不可欠な業務ということで、焼却炉は地域の施設として運営されてきたので、施設が立地する地元の住民にもそれなりに理解されてきた。人口密度の比較的低い地域では特に、運搬距離が長くならないように、多数の小規模焼却炉が作られてきた(制度的にも市町村固有事務ということで、各市町村毎に作られてきた)。このように結果的には、小さく地域でまとまることでうまくいっていたのである。小規模の極みでは、各戸ごとに庭に家庭用焼却炉が設置され、それに奨励補助金まで出しているものもある(これは収集、灰処分の仕事の一部が自治体からなくなるからでもあろう)。

 それが、広域的に収集し、比較的大規模な施設で処理しないと、ダイオキシン対策の技術から見るとうまくいきませんよ、となったから、それぞれの地域での議論を生むことになっている。つまり、自分たちが出したゴミだから自分たちの区域で処理するのは当たり前、という議論の大前提が崩れることになったからだ。地域住民の気持ちを越えて「大きくなることが良くなる」ことも技術的に考えればあり得るのである。

 同じような話で、流域下水道反対運動があった。大規模だし、流域単位に市町村を越えて下水を集水・処理する−これは本来の水系水循環の考えからの要請で、人為の行政界にとらわれないことにした−ことから、地元の反対者の中には、自分たちの出した下水という気持ちが持てないという素朴な感情からのものもあった。しかし、下水道管理者側でも、処理場周辺への徹底的な2次公害防止策を講じたところから、完成して、運転を始めれば、問題は少なく、流域下水道の当初の設置理由の一つであった規模の利益が得られ、現在では暗黙の評価は頂いているというのが正直なところだろう。

 
■分散と集中

 以上のゴミ、下水2つの例からも、収集処理施設の規模については、大きいか、小さいかが絶対の適不適の判断基準になるのではなく、その地域の廃棄物発生密度から運搬距離などの手間との相関で最適処理規模が決まるものである。つまり地方部などの人口が希薄な地域ではゴミ、下水とも収集距離が長くなる欠点を避けるため、処理施設は比較的小規模とならざるを得ない。反対に大都市圏では人口密度が大きく、比較的狭い地域でも多くのゴミあるいは下水を収集できるので、処理施設の方は規模の利益(スケールメリット)を享受し、大規模化できる。大きいのが全ていけない、あるいは反対に何しろ大きいのがよいというのは、全く科学的根拠を持たない議論で、処理施設が分散すべきなのは、収集のことを考えてのことで、集中すべきなのは処理施設の効率を考えてのことだと理解すれば、すべては地域の特性でその間のどこかに収める議論となる。

 ただし、収集と処理の技術のそれぞれの進展の度合いによっては、これらのバランスは固定されるものでないことは確かだ。例えば以上の議論に「発電と送電配電のシステム」は類似する。送電ロスを最小化する高圧送電技術が限界状態になっているのに対し、発電技術は燃料電池、コージェネレーション(熱電気併給システム)など分散化を可能にする技術開発が急ピッチに進み、比較的「分散」の方へ傾きつつある。

 ゴミで言うと、「ガス化溶融炉」がそれである。理想燃焼状態を生み出すため、ゴミを一度乾留状態(蒸し焼き)にして、可燃成分を出来るだけガス化したうえで、そのガスを燃やせば、完全燃焼に近づけることが出来る。種々のプラスチック類も受け入れ0Kだ。残灰に有害成分が残るが、それも高温で溶融し、ガラス状態に固化させれば、処分しても溶出することがない。この技術など(中間)処理技術が飛躍的に進展し、施設が小規模でも対応が十分可能になれば、「分散」の方が有利になる。

 
■混合処理を可能にする技術

 プラスチック類などは分別収集し出来るだけリサイクルさせるものの、その対象とならないものがどうしても残る(現状でリサイクルにのっているトレー、ペットボトル以外となるとかなり多い)。それらをこの最新の燃焼技術では一般のいわゆる可燃ゴミと無害に混合燃焼でき、そうすれば減容化され、焼却熱発電する場合はサーマルリサイクルにはなる。分別収集しても、結局はそのまま不燃ゴミとして埋め立て、最終処分場の容量を一層減少させるよりは賢い方法だ。

 同様のことを下水で言えば、最初はし尿を雑排水と混合処理することは技術的に見て問題があった。我が国ではし尿が貴重な肥料だった歴史も災いしている。それが今では混ぜて処理することは(技術的にも)当たり前となっている。混合すれば、バキュームカーによらず、下水管の中の雑排水で、し尿を流し運搬出来るというおまけも付いた。下水道は混合処理の模範生なのである。更に考え方を進めて、ディスポーザーにより生ゴミとの混合処理も出来るようになることが模範生の終着であろう。

 次々項でも述べるが、受け入れ処理する方の都合で、利用者へのサービス向上を忘れ、分別収集を強い続けることは、この項で言えば、技術の進展にも支障をもたらすのである。
 

■処理技術よりもっと輸送技術

 前々項で「分散」対応技術の話をしたが、逆に、輸送技術の進展があれば、「集中」の方へ傾く。廃棄物の輸送技術は特にゴミ分野において、また下水分野でも大変遅れている技術でなかろうか。例えば、ゴミについては前々回に述べたが、ディスポーザーの不採用がある。長大な延長を既に敷設済みの下水管というパイプラインで、生ゴミを先客の下水と一緒に輸送する有利性が明白にもかかわらず、下水との垣根が高く採用できない。代わりに考え出されてきたのが、ダストシュートという垂直重力式運搬のスペースと、ゴミカプセルによる圧搾空気管輸送だった。前者は圧倒的長距離の水平移動の問題を解決しないのみならず、つまり・悪臭などの問題により、結局は使用されなくなり、古いビル内での遺物となっている。後者は定点間輸送にしか使えず、新市街地内などでの極めて限られた採用にとどまっている。

 生ゴミはディスポーザーによるとしても、他の資源ゴミはどうやって運搬の改善を図るべきか。リユースは別にしてマテリアルリサイクル・サーマルリサイクル(前稿参照)するためには材料選別(磁選、重力選別など)のために細かく粉砕する必要がある。そうであれば中間のゴミ集積ステーションで前もって粉砕しておけば、そこからは最終のリサイクルセンターへの専用パイプラインを設置して、そのまま(粉体状になるのでカプセルに入れないまま)空気輸送が可能となる。現在中間集積場では(運搬能率の悪い)小型車で収集したゴミを圧縮し、まとめて大型車に積み替えて焼却場あるいは最終処分場までの運搬の合理化を図っている。その運搬には貨車あるいは船舶を利用すれば更に合理的となるが、パイプラインのメリットには勝てない。ディスポーザーもそうだし、後で述べる圧力式下水道でも粗大夾雑物を粉砕してパイプ輸送可能な性状(液体状、粉体状)にしているのを見ればこのことが分かる。

 下水の方も「輸送」技術に問題が山積している。下水道事業費の8割は管渠築造費と言われている。残り2割の処理技術の進歩はめざましいものがあり、ディスポーザー対応の下水道の処理技術でも今後期待するところが大きいが、全体で見るとたった2割の中の努力では全事業費の縮減にはたいして役に立たない。

 下水管の技術は相も変わっていない。総体としてはパイプを何らかの工法で敷設し、重力の力で下水を流そう(自然流下式)というものである。敷設工法としては確かに、地表開削による埋設工法に、トンネル工法では推進工法、シールド工法が加わり、バラエティがある。しかし、下水管は延長が長いだけに、自然流下だけに頼ると埋設深さが積み重なり、それが工事費を高める。より浅い位置での敷設となるよう、もっと圧力管の採用があるべきで、末端収集部分での採用(圧力式下水道と呼ぶ)も含めて技術開発と普及のための技術が必要だ。

 いずれにせよ繰り返すが、都市ゴミなど常時大量に輸送するものは、パイプラインによるべきで、道路上をトラックで輸送することなどは運搬「技術」以前の問題であるし、運転手等の人的資源の浪費になるばかりでなく、都市の道路交通問題(ディーゼル車排出NOX問題を含む)に拍車をかける行為だと反省すべきだ。さらには、路上をゴミ集積場にし、町並みを汚していることなどは文明国の名を辱める行為だと気が付くべきだ。

 
■技術者ブラックボックス論

 下水道でもゴミでも、前項でいくら輸送技術の方も重要だと説明しても、技術の花形は水処理あるいは焼却技術等の処理にかかわる部分だ。学問的にも奥深いものがあるし、効果も目に見えてわかりやすい。

 この「処理」を仕事の対象とすると、技術者にとっては処理対象物質の原質(原水水質、ゴミ質)がどうなっているかが気になる。処理対象の質が変われば対応技術も変わらざるを得ないからだ。

 この場合問題となるのは、この稿の第一話冒頭で述べた「処理しづらいものは流さないようにしよう」という市民運動に期待し、その前提で処理技術を組み立てるようになることだ。技術が未熟な場合、一時的には仕方のないことだが、技術の進歩を目指す以上、ユーザー側の努力を永続的に当てにしてはいけない。現在、下水中の油分は処理が難しく、下水道局としては、下水道使用者に対し、台所の油は下水に流さず、紙などで拭い取ってゴミに出して下さいと(これは下水で言う分別収集ということになる)、お願いのPRをしている。これも(ゴミに責任を転嫁することなく)台所での家事を少しでも楽にするため、下水中の油分の処理技術を一刻も早く確立する努力があった上でのお願いであるべきだ。

 この世の中のどこに、この下水あるいはゴミで言えば分別収集のユーザーの努力を当てにしたサービスがあろうか。それは、ユーザーである市民の、環境は自分たちで守るのだという懸命な「気持ち」の上にあぐらをかくような行為であろう。似た分野の水道だってそうではない。昔のあるいは現在でも途上国の水道は、雑菌などの混入でそのままでは飲用に適さず、濾過したり沸かしたりのユーザー側の努力が必要だった。使用水量の大部分は非飲用だから、これが一番合理的なのかもしれない。しかし我が国の水道は、浄水技術の進展があり、例外なく蛇口の水をそのまま飲むことが出来る。世の中のサービスは意識せず努力もせずに享受できるのが、「サービス」と言う名に恥じないもので、そういう状態にするため、各サービス関係に従事する技術者は(競争もあるので)日夜技術開発に頑張っている。

 サービスの極致はこの水道であろう。何しろ蛇口をひねりさえすればザーだから、これほど努力なしにさらには意識もせずサービスを受けられるものの代表はない。水源(地での犠牲)のことを考えて水を大切に使いましょうと言われても、実際にそのことを意識して節水している人はごく少ない。むしろ水道料金が高くなることを恐れて節水している方が多いだろう。サービスの対価は当然で仕方ないし、結果として節約して使うことに違いはないから、これで構わないのではないか。

 この水道の蛇口(に至るまでのもの)に代表されるものを私は「ブラックボックス」と呼んでいる。サービスを受ける裏での過程がどうなっているかを一般の人は知らなくて良い。むしろ全く意識しないで使ってもらう程良いサービスで、技術者はそれを目指して、一層技術開発すべきだと言いたいのである。

 更に言及すると、技術開発の秘訣には、優秀な技術者が居るだけでなく、それにプラスして、開発のインセンティブが必要だ。たとえば我が国の優秀な各種公害対策技術については、自動車排ガスあるいは工場公害などでの厳しい規制をクリアしようと優秀な技術者が日夜努力した結果に他ならない。厳しい規制をいち早くクリアすれば、他社に先駆けて利益を得られるという競争のインセンティブがあったのである。これらはいずれも民間活動への規制だが、下水、ゴミの公的なものについては(競争がなく)、ユーザーに責任を転嫁することにより、技術開発のインセンティブを自ら殺してしまっているというのが以上の主張の結論である。

 
■おわりに−もっと日本の町を美しく−

 日本の町並みは欧州に比べなぜ美しくないのだろう、と洩らす欧州帰りの人が後を絶たない。余りにも「欧州では…」と日本が見本とすべきことを繰り返すので、陰では「欧州出羽の守」と揶揄されるが、それでも日本の町が美しくないことに変わりはない。

 筆者も欧州には行ったことがあるが、2つのことがあると思う。

 1つは町を構成する街路公園建物そのものだ。例えば日本の道の上空には電線がくもの巣のように張り巡らされるなど、美しいという言葉とは無縁の風景であることは確かだ。これはこれで改善の方向にはあるが、道のりは正直遠いと言わざるを得ない。

 あと1つは、この稿に関係する、清潔かどうかということである。途上国の町では首都でも、整然とした表通りから一歩裏にはいると、どぶの臭いと散乱するゴミに目を背けてしまう状態だ。日本はどうかというと、どぶは下水道の整備によりあらかたなくなった。問題はゴミの方である。ゴミの散乱がそれでも少なくなったのは、日本人が清潔好きの国民であることと、町がきれいになるにつれポイ捨てがしづらくなるのが人情だからだろう。ただ、ゴミ散乱の原因で残っているのは、ゴミの収集置き場に狭い道路上を利用していることだ。欧州みたいに都市計画が出来ていると、道路外にゴミを置くスペースも確保でき、そこには大型密閉容器(分別のため色分けて複数ある)を備え、それに各家庭からのゴミを収容するので、臭いも出ないし、散乱するおそれもない。

 日本では、1つ目の町並みが(道路が狭いなど)劣っていることでゴミの置き場すら確保できず、清潔好きなのに、やむを得ず町が汚くなってしまう。このことを思うと、ディスポーザーなどゴミの収集輸送問題の解決策が、経済性のみならず、さらに今日的には重要な「美しい町の実現」のため待たれていることがわかる。

 筆者は早朝通勤途中で東京の渋谷駅周辺の町を歩くことがある。昨夜華やかだった歓楽街が、宴の後の翌朝はけだるく、閑散としてはいるが、例外的に動くものがありそれらは、カラスの大群が飲食店から吐き出された大量の残飯目がけて空陸から取り囲み狙うのと、それらと競争・威嚇するかのような民間委託大型ゴミ収集車のエンジンの大音響である。通常の時間帯では見られないもので、筆者は自分だけ華やかさの裏の実質部分を盗み見てしまったような気分におそわれ(あるいはこれが経済大国と言われている日本の実態・実力かもしれないと感じ取って)、いつもそこでは足を速めてしまう。