4,セーヌ川の汚濁進行
 水供給量の増大は汚水量の増大を引き起こすものでした。パリ市民はもともと入浴の習慣はあまりなかったようですが、富裕層の家庭での入浴が増え、公共浴場が1817年に500カ所であったのが1831年には2700カ所になりました。
 またイギリス式便所と呼ばれた水洗トイレを使う人々もでてきました。
 このように汚水量が急増しました。
当時、家庭からの下水、街路を洗い流した水が下水道や側溝からセーヌ川に流れ込んでいて、川は汚れていきました。

5,コレラの大流行
 コレラはもともとガンジス川のデルタ地帯に多発する風土病でした。19世紀に入ると世界的に流行するようになりました。理由として人々の移動が活発になったり、鉄道の発達により聖地巡礼の規模が拡大したことなどがあげられています。
 世界規模の流行は以下のように広がりました。最初1817年にインドからミャンマー、タイを経て東南アジアの島々に侵出したのち、1820年に広東から北京の地域に拡大しました、1822年(文政5年 この翌年シーボルトが出島に着任)には日本に上陸し、8月から10月にかけて西日本で流行しています。
 また1821年にペルシャ(いまのイラク)に達したコレラは中東を席巻し、1823年にはコーカサスの山麓やカスピ海沿岸で流行しました。
 1830年ペテルスブルグとモスクワに達したのち、ポーランドに広がっています。
 1831年にはイギリス全土で蔓延しました。フランスでは1832年カレーではじめて発生した後パリに到達し、このときの死者の数はパリ1.8万人に上り、およそ5人に1人という高率で人が亡くなったことを示しています。
 その後幾度となくコレラの流行がありました。

6,下水道整備が緊急の課題に
 欧州ではペスト、チフス、コレラなど多くの伝染病が流行し、多数の人々が亡くなりました。医師や公衆衛生にたずさわる人々は、この流行を統計的に解析し、伝染病が生活環境が劣悪な地域に多く発生することを科学的に導き出しました。
 当時、伝染病の原因について、二つの考え方が対立していました。
 「接触伝染説」 伝染病が生きた伝染質によって引き起こされるという考えであり、その後の細菌伝染説につながるもので、正しいものでしたが当時は少数派でした
 「非接触伝染説」伝染病の原因が、死体、汚物、塵芥などの腐敗物、澱んで腐敗した川などが発生する「毒気(ミアズマ)」であるとし、人がそれを吸い込んだり触れたりして発病するというもので、主流派でした。
 当時すでに検疫制度があり、イギリスやフランスではドイツからの船に対し一定期間停船を命じていました。これは接触伝染説を根拠にしたものです。
 しかし、コレラが上陸してしまったため、接触伝染説は不利になっていきました。
 またコレラが「ミアズマ」が充満していそうな低所得者階級の住む地域で多く発生したこともあり、当時非接触伝染説が強くなっていきました。
「ミアズマ」をなくしていくには下水道によって排水の流れを良くし、蓋をしてミアズマが立ち上らないようにしなければいけないという考えが主流になっていきました。これから下水道の建設が急務となりました。