7,ナポレオン3世のパリ大改造
1831年権力を手中におさめたナポレオン3世はパリの大改造を決意し、ジロンド県知事であったオスマンを抜擢し、任に当たらせました。
老朽化して非衛生的な低所得者階級の住居地を建て替えるという公衆衛生上の理由だけでなく、街路拡張、上下水道、公園など公共施設を整備して 近代都市に造り替えるという高邁な意図がありました。
下水道については、地形に応じ4本の下水道幹線を建設し、下水をパリの郊外まで運んでセーヌ川に流すというものでした。1851年リボリ通りの拡幅整備の際、高さ4m、幅2.4mという大きな幹線が整備されるなど、1861年に幹線下水道は完成し、その後準幹線の整備に移行しています。
パリ大改造のためには巨額の資金が必要でした。このため公共投資に国債を発行し民間から資金を調達することが行われました。
8,当初トイレは接続せず
下水道ができあがった地域では、下水を下水道に排除することが義務付けられました。 担当の技術者であったベルグマン他は、イギリスでの調査から水洗便所も受け入れるべきとしていましたが、オスマンの了解を得られませんでした。その代わり、オスマンはし尿のうち固形部分を浄化装置にしばらく溜め、一定期間後下水道に流すことにしました。この施設は市庁舎、兵舎、学校などを対象に実験がはじまり、公衆便所、やがては道路に面した住宅などに次第に拡大されていきました。
パリでし尿を下水道に流すことが認められたのは下水の処理が確実に行われるようになった1880年代です。
9,パリ万国博で下水道を世界にアピール
1867年の第5回万国博が開催され、市街地の大改造がほぼ完成し、「花の都」と欧州第一の都市になったパリがその舞台となりました。ナポレオン3世は、世界に広く参加を呼びかけ、江戸幕府も出展し、使節団も派遣されました。使節団は下水道も視察しています。大型土木建築構造物を造ることを可能にした大型機械は主要な展示物でしたが、橋梁など土木構造物は会場に持ち込めず、会場近くにあって比較的容易に入り込めた下水道が東洋から来た視察団の見学に格好の施設でした。
10,下水の処理へ
当時今のような下水処理の手段はありませんでした。セーヌ川の汚濁を軽減し、下水中の肥効成分を有効に活用する、灌漑処理法は欧州各地で実施されるようになり、1865年にセーヌ川右岸で実験が始まり、結果は上々でした。 当時セーヌ川の汚濁もひどくなり、1865年の伝染病発生などもあって、下水処理が行われることになりました。
サンジェルマンの森とセーヌ川の間にあるアシェール平野に下水畑のための広大な土地が購入され、1889年から5年以内に市内全域の下水が処理されるよう法律で義務づけがされました。これと同時に、市民の水洗トイレ化の義務付けも実施されました。
下水畑の処理は第一次大戦直後まで続き、最盛期には5千ヘクタールにもなり。その1/3を占める市有地には農園が設けられ、花や果樹などが栽培されました。残りの民有地では牧草、菜類、ジャガイモなどがつくられていました。
1930年に下水処理場の事業計画がつくられ、アシェールでは広大な敷地の中に逐次活性汚泥法の処理施設が整備され、現代にいたっています。一方下水畑も二千ヘクタールほど残っています。