ー井戸水と水道水 尾鷲・大阪─ 網谷 力 | ||||
2014.11 | ||||
昭和21年(1946年)の暮れに私は生を受けます。生後一週間、南海地震の津波で、岡山の生まれた家は一階が浸水したそうです。 〔昭和南海地震:1946年12月21日午前4時19分〕 1.三重県尾鷲(おわし)町[現・尾鷲(おわせ)市] 時は下って・・・・・・・。 昭和28年(1953年)4月、私は、三重県北牟婁郡尾鷲町の向井小学校に入学しました。一年生1クラスで17名、“二十四の瞳”ならぬ“三十四の瞳”でした。(※「二十四の瞳」は、昭和27年(1952年)に壺井 栄が発表した小説で、昭和29年(1954年)映画化されました。) 当時、紀勢本線は、尾鷲と九鬼・三木里間等が繋がっていなくて、紀勢西線、紀勢東線に分かれていました。現在は、三重県亀山市の亀山駅から尾鷲駅・新宮駅・紀伊田辺駅を経て、和歌山県和歌山市の和歌山市駅に至る幹線です。亀山駅-新宮駅間はJR東海、新宮駅-和歌山市駅間はJR西日本の管轄です。全線開通は昭和34年(1959年)7月15日です。 尾鷲への転居は、父の勤めていた建設会社が、尾鷲側から幾つかの鉄道隧道(大曾根隧道等)や橋梁等建設に関連する工事を請負い、父の転勤に家族が同道したためでした。 二年の一学期まで、向井小学校で、その後、町内(野地町)に移転し、尾鷲小学校に転入、二年の終わりまでの二学期間を過ごしました。50人超えのクラスが8組まであったと思います。 |
||||
|
||||
2.大阪府布施(ふせ)市[現・東大阪市] 昭和30年(1955年)3月下旬に大阪府布施市に転居します。布施市立永和小学校の三年生に転入しました。永和小は、近くの菱屋西小学校から分校したばかりで、私はそこの卒業第五期生ですから、同級生は、二年生の時に前の小学校から新しいこの学校に移ってきたことになります。一学年200名超えの4クラスでした。後続の学年は、いわゆる戦後の第一次ベビーブームの世代で2~3年下は、倍以上のクラス数があり、一時、午前・午後の二部制で教室を使っていました。ここから26年余この界隈(旧布施市内)で過ごすことになります。 昭和35年頃(1960年)のテレビのホームコメディーで、「水道完備、ガス見込」といった番組がありました。転居先の祖母の住んでいたこの家では、水道とガスは完備していましたが、便所は汲み取り式で、これは、昭和40年代後半まで続きます。 この頃も風呂は近くの銭湯に通っていました。この時も道路を挟んで散髪屋(理容店)の隣が銭湯でした。 昭和45年(1970年)に結婚して借家住いした同市内「弥刀(みと)駅」近くの叔母の家は、風呂付きでしたが、便所は汲み取り式でした。 この頃、長瀬川のすぐ西側にあるこの付近では、大雨の都度床下浸水を経験していましたので、下水道の整備はもっと後のことだと思います。 昭和48年(1973年)の暮れに元の東大阪市永和の俊徳道駅近くのマンションで、初めて水洗便所の家に巡り合います。ヴァルコニーに集中給湯器とスプリンクラーが付いた生活も初めての経験でした。 当時のこれらの設備は、マンションの走りで、水道使用量も含めて、維持管理費が高くついたように感じていました。 電話は、初めてプッシュフォーンになりました。ちなみにごみ収集は、非常階段の各踊り場にダストシュートが付いていました。 この時以降、水とのかかわり方は、今とほとんど変わりがありませんが、トイレが和式から洋式に変わり、ウォシュレットが追加されたことでしょうか。洋式トイレは昭和48年(1973年)からですが、ウォシュレットは、今のマンションに移った平成15年(2003年)からのことでした。 3.水(もしくは水道)と文学作品(これは“おまけ”です。) 静岡理工科大学教授の志村史夫氏が執筆された「『水』をかじる」(ちくま新書2004年7月10日第一刷発行)には、コラムとして「文学作品にみる水」が掲載されています。全6章の末尾に付属していて、次のように5名の作家が登場します。 第一章 丸谷才一「輝く日の宮」 第二章 神話 第三章 寺田寅彦「茶碗の湯」 第四章 幸田露伴「水」 第五章 宮尾登美子「藏」 第六章 夏目漱石「草枕」 本稿では、他の小説の中から、「水道が、いかに衛生的であるか!」を感じとることのできるシーンをご紹介します。このシーンが登場するのは、昭和初頭、この頃は東京でも井戸と水道が混在・共存していた時代です。 永井荷風の昭和11年(1936年)11月脱稿の小説に『濹東綺譚(ボクトウキダン)』があります。 「主人公(作家)が梅雨時の俄雨に、常時携行の傘を静かにひろげ、歩きかけると、いきなり後方から、『檀那、そこまでいれてってよ。』といいさま、傘の下に真白な首を突ツ込んだ女がある。・・・・(中略)・・・・・。 その後、その女の家に雨宿りの風情・・・。 『この辺は井戸か水道か。』とわたしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。井戸の水だと答えたら、茶は飲む振りをしておく用意である。 わたしは花柳病よりもむしろチブスのような伝染病を恐れている。肉体的よりも夙く(はやく)から精神的廃人になったわたしの身には、花柳病のごとき病勢の緩慢なものは、老後の今日、さして気にならない。 『顔でも洗うの。水道ならそこにあるわ。』と女の調子は極めて気軽である。」 どうでしょうか? 下線部のように、当時から井戸水よりもずっと水道水に対する信頼度が高いように感じますが如何でしょうか? 出典:中央公論社「日本の文学19 永井荷風(二)」昭和40月6日5日 以上 |