戦勝国の欧米各国は進駐してくると直ちに自分たちが寝起きする宿舎・キャンプを設営した。工兵隊が宿営地キャンプの基本計画を作り、宿舎の配置や間取りを設計して日本の土木建築企業に発注して造作をさせたようである。彼らのキャンプは治外法権地区であり、その施設・設備は文明国たる彼らの流儀で設定がなされた。宿舎のサ二テーション(水道給水、手洗い、バス・シャワー、トイレ)は当然、欧米で使われているシステムや器材が使われた。欧米先進都市の衛生システムがそのまま取り入れられたのである。
私もが子供の時垣間見たその例と沖縄返還の際に知った例を以下に紹介しておくことにする。
9-1 立川基地の排水処理
立川市の西部は飛行場と富士見町と言う市街地・農地で構成されていた。富士見町は、2段に分かれ上が河岸段丘の(武蔵野台地)で、下は低い多摩川の氾濫原カラなり、氾濫原は堤防によって田畑や集落が守られていた。
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立川基地は現在の昭和記念公園を含む旧日本陸軍の飛行場で、戦前から軍施設であった。
駐留軍は立川に進駐すると直ちに空軍輸送基地として整備をはじめ、基地内に兵営キャンプや家族ハウスヲ造った様である。基地司令官及び幹部の宿舎は多摩川を渡った日野市にしつらえた。JR中央線日野駅のすぐ東隣、高台から立川市街地を望む景勝地である。
日野の宿舎はさて置き、基地内で排出するし尿や厨房排水、洗面所排水、バス・シャワー排水はどうしていたのだろうか。軍属・家族及び基地に雇われている日本人労働者は数千人に及ぶから一人平均250リットルとしても排水の量は日量250~500トンになる勘定である。
定かではないがどうやら彼ら進駐軍は自国の流儀に基づいて下水道(汚水管)を敷設し、端末で処理施設を設置した様である。基地から発した下水道は市内の道路を最短距離で南に向かい、河岸段丘の崖を削って中段に平地を造り、ここに小規模な下水処理施設をこしらえた。立川市富士見町4丁目地先であった。キャンプ地の下水発生点ではポンプ揚水したかもしれないが、地形は南に向かって下っているので、自然流下で下水は流れ、処理施設の中でもポンプを使うことなく処理工程を流下させていたようである。処理の方法は固定式ノズルを用いた散水濾床方であった。
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当時、私は小学校の4年生か5年生だった。夏場、近くの東京都農業試験場の地下水をくみ上げて温める池に泳ぎに行く時、この処理場に面した坂道から施設を眺めたものである。下水処理などと言う概念は知らないから、きれいに並んだノズルから噴き出ている水を見て変な噴水だなと思ったものである。
後年、大学で衛生工学を学んだとき、教科書に描かれた固定ノズル式の散水濾床の図面を見て、あっ、これだったのかとびっくりした。きれいな噴水ではなくて下水を噴き上げていたのであった。
9-2 沖縄の統合下水道
太平洋戦争が終焉した時、沖縄は完全に米軍(正確には連合国軍)の占領下におかれ、随所に軍事基地や軍属のキャンプが築造された。沖縄本島ではそれらの面積は数十パーセントに及ぶ。基地の中には整備工場や、人が生活する場があるから当然下排水が出てくる。衛生先進国である米国の軍隊の事だから彼らは基地設営に付随して、綿密な排水計画を立てたようである。その際、基地の中だけの排水処理では、衛生的観点から不十分と見て周辺の日本人が棲む市街地も清浄な環境に保たねば、衛生保全を図れないと考えた。そこで、那覇市など大きな都市では日本人市街地の下水を合わせて処理するシステムを考えた。これが沖縄の「統合下水」と呼ばれるものである。施設の管理は、琉球政府や市役所を中心に設置した下水道公社に任せられた。米軍が作った施設だから寸法や目方はヤード・ポンド法であった。
昭和47年に沖縄が日本復帰した時、「統合下水道」は「流域下水道」に切り替えられた。
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