4,お風呂 水回り昭和の記録 | ||||||||||||
西欧の風呂ではバスタブに湯をため、一人が入るとそれは捨ててしまって、次の人は新しいお湯を補給するシステムを取っている。これに対し、日本の風呂は、桶に蓄えた湯に大勢の人が浸かり、体を温める。 大勢の人が風呂を使えば桶の中の湯は次第に汚れてくる。人数が多くなるとその日のうちに桶の湯は落とし、中を洗って次に備えなければならない。 湯沸かしの作業は、残り湯落とし、桶の洗浄、新しい水の補給(水汲み)、竈の着火、薪くべ、温度見(観温?)と続く。この位の作業は、小学校中学年から十分にできる。だから、私達も子供の頃はよく風呂焚きの準備をやらされた。風呂栓をぬいてまず湯を落とし、タワシで桶の中をこすって水垢を落とす。洗浄が終わると井戸の手押しポンプを上下させてバケツに水を汲み、井戸から離れた風呂桶まで両手にバケツをさげて運び風呂桶に注ぐ。 一方で、薪を割って細木にし、釜に詰めた新聞紙の上に乗せる。マッチを擦って火を新聞紙に移す。火が着いたら次第に太い薪に変えていく。煙突掃除だってやらなければいけないのだが、さすがにこれだけは大人の仕事だった。井戸の水汲み、バケツ運び、薪割り、今思い出してもみんな嫌な仕事だった。 4-5 加熱用燃料(薪釜からガス釜へ) 昭和30年代後半になると家庭用燃料として、灯油が主役になり、東京郊外でも都市ガスが入るかプロパンガスが使われるようになった。これにより薪や木炭は次第に姿を消していった。炭・練炭は明治生まれの主婦(わたしらの母親世代)たちが長時間の加熱調理用や炬燵用に使う程度になった。その炬燵さえも電気コンロに置き換えられていったのである。電気コンロは形を変えて電気炬燵の形式になった。 風呂釜の方も、薪釜は次第に廃れ、ガス釜に変わっていった。ガスは都心部では都市ガスが、郊外部ではプロパンガスが利用された。自動着火装置のついたバーナーをセットしたガス釜がきわめて便利なのに目を見張る思いであった。この時代、風呂桶も木製のものからステンレス桶に変わるなど大きな変革が生じている時期であった。 ところで、家屋内に設けられた風呂も釜の焚き口は、当初屋外にあった。台所の戸口を出て軒下をたどり風呂場の外側に出向くわけである。だから、ガス釜に変えられて、風呂場の中で火の調節ができるなんて本当に夢のようなことだったのである。
このバスオール、平たく言えば、風呂のない家や共同住宅のリビングに簡易な風呂を設置しようというものであった。このシステムは関西で開発されたもので、大阪千里ニュータウンの初期賃貸住宅のように風呂がない住宅でずいぶん売れた。かく言う私も大阪府に転勤し職場から近い職員住宅の6階に入れてもらったものの、2DKの住宅に風呂はなく、すぐ近くの銭湯を利用しなければならなかった。しかしこの時期、第1子の長男は2歳で、家内は第2子を懐妊しており、エレベータなどない6階までの上り下りが大変であった。日に1度の買い物は致し方ないにしても夜半赤ん坊を抱いて銭湯に行くのは辛い、苦痛である。
1964年(昭和39年)秋に東京オリンピック開催が決まって、4~5年前の昭和36年位から日本国中なかんずく、東京都と近郊ではその準備に追われた。高速道路、新幹線、下水道、隅田川浄化等のインフラ整備が熱心に行われたのである。外国からの賓客を泊める為の高級ホテルも都内各所に新築された。この頃から建築物はカーテンウォール方式が取り入れられ骨格や外壁は短時間で完成させられたが内装特に左官・タイル工事を含む浴室は一部屋ごとの仕上げのため数百室に及ぶ工事の難渋が予想され、工期内完成が危ぶまれた。このとき時間短縮工法として考案されたのがユニットバス方式であった。前出バスオールのように、工場で整形したバスタブ、シャワールーム、防水天井をセットにして組み立て現場に組み立てるやり方である。これによって工期は大幅に縮小された。設計者、元請けゼネコン、給排水工事会社、FRP製作会社が一丸となって知恵を絞った成果であった。この手法はその後ホテルや大規模集合住宅の建築で応用されて行った。 |
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