8 便所にまつわる事ども                       水回り昭和の記録
 トイレに関連して戦前生まれ年代の人間が「ああ、あった。あった!」と懐かしく思い出すものがいくつかある。ここではそれらについて記述しておくことにする。残念ながら正式名称は今や不明である。
8-1 蝿・虫対策
 最近でこそ、都会の住居でハエを見ることは少なくなったが、昭和40年頃までは普通の家庭でも暖かくなると家の中にハエは飛び込んできて五月蠅さかったし、不潔であった。私共が目にしたハエは体長7~8mmの比較的小型のイエバエで全体に黒っぽかった。生ゴミや腐敗物を棲みかにして育ち、成虫なると住居の中に侵入した。このほかに体長が10~15mmになる便所バエや金色に輝く金バエもいた。分類学的にはハエの仲間は数千種もあり、私達が接したハエの学名は判らない。 しかしハエは不浄な場所から飛来して細菌、ウイルスなどを運び人畜に感染症を誘発したり、危害を与える困りものであった。ハエとの戦いは古来からの昔人の悩みの一つであった。この悩み、基本的には殺虫剤で殺傷駆除し、彼らの生育環境を断つことによってのみ解決する。少なくとも現在の日本の都会では既に解決している悩みといえよう。ハエと戦っていた頃の商品や道具が私達の記憶には新しい。以下に、それらのいくつかを紹介しておこう。
 ハエ取りシリンダ 1) ハエ取り紙
 
ハエ取り紙というのは、誘引剤が着いた粘着テープを天井や鴨居などから吊るし、寄って来るハエを補足するものである。「リボンハエ取り」とか「ハエ取りリボン」ともいう。
主にロジンと油(ひまし油等)などを原料とする粘着性の強い粘性を持った液体がシートに塗布されており、これに接触した昆虫など小動物が粘りつくことで捕えられる。[中略]溶剤は乾いて固化はせず、概ね塗布された液体の面が出ている限りは対象を捉える事が出来るが、見た目で不衛生なため、ある程度の期間が経ったら新しいものと交換する。[中略]高さ8cm程度の紙筒に入ったテープを引き出して使用する。
 ハエ取り紙 ウイキペディアより
テープ先端には画鋲が取り付けられている製品もありこれを天井や鴨居に刺して固定する。[以下略]
2) ハエ取りシリンダー
肉厚3mm、外径30mm、長さ80cm程度のガラス管を加工して作る上部はロート状に広げて朝顔状の広くちとし、下部は球状に成型して水を蓄えられるようにする。この装置の球形部分に水を入れその部分を握って天井に止まっているハエをロートで覆うと、ハエは飛び逃げようとするがガラス管の中を滑って球状の水溜まりに落ち、捕獲されてしまう。現在新興国ではガラス化の代わりにプラスチックをつかって製品化しているようである。この道具、「ハエ取りビン」、「ハエ取り棒」ともいうらしいが正式な名前は不明である。ただし「ハエ取りビン」については別商品があり、卓上に置くタイプである。
3)  食卓用ハエよけ覆い・・・写真
(蝿帳)
電気冷蔵庫が一般家庭に浸透するまで、「蝿張り」という木製家具があった。食品のストッカーである。家族の中で誰かが遅く帰宅し、食事をするとき、家族と一緒に作った料理を保存しておくものである。全面が網の引き戸になっていて、大きさは高さ50~60cm、幅4~50cm、奥行き40cm程度のものが多かった。中には2~3段の棚があって、皿、茶碗、丼類をいくつも収納できた。網戸は蝿の侵入を防ぐためのものである。しかしこの家具は場所を取って、邪魔になるものであった。。
(折りたたみ式)
そこでポータブルの折りたたみ式ハエ張りなるものが発明された。料理が並べられたテーブル(といっても今の様な腰高の卓ではなくて、チャブ台=座卓)の上部を覆うようなパラソルである。パラソル(蝙蝠傘も)は内側から金具を押し上げて傘状に開くが、ハエ張りの場合は上部に取り手の付いた紐があり、これを引っ張ると金具が上にあがって傘が開く。パラソルの生地は布状の防虫網である。
 開いたときの形状は四角形のものが多かった。パラソル縁と座卓面との間には隙間ができないように工夫されていた。1~2人前の食事を覆うものであるから、そんなに大きなものではない。せいぜい40~50cm四方で、天井高が20~30cm程のものであった。
8-2  臭気
1)  田舎の香水
人間の排せつ物は、体内で消化しきれなかった食物(有機物)カスである便と尿素を含む小便だから微生物がアタックしやすく、常温に放置されれば直ちに嫌気的な微生物反応が始まる。この反応によりアンモニア、硫化水素、スカトール、メルカプタンなどの臭気成分が発生し臭気のもとになる。
いずれの成分も人間にとっては不快臭で、逃げ回るか遠ざけたい代物である。
便槽から汲みだすときは便をかき回さざるを得ないから、外気との接触面が増えて大量の臭気が排出される。この臭気は「田舎の香水」と揶揄され、「鼻つまみ」された。
2)  マスキング(醤油焦がし、防臭剤)
便所の汲み取りが始まると、暫くは近所一円に臭気をまき散らすので、大正・昭和の時代、都会では臭気を抑えるため、芳香剤・防臭剤を撒いたり、七輪の火に醤油をたらして焦げ臭を発生させ、今日でいう「マスキング」で難を逃れていた。
便所の臭気は、便槽内に静かに収まっていれば強烈ということはなく、恕限できる範囲にあった。しかし外便所はともかく、内便所では臭源を生活の場から遠ざけけるため、家屋の隅で、できるだけ冷所になる位置に便所を設置した。
8-3  落とし紙(トイレットペーパー)
 排せつが終わった後、人は肛門の周りに付着している糞便を拭い去る習性を持っている。ぬぐい去る方法は、民族、種族、時代によってさまざまである。この辺を研究した専門家も少なくない。論文も沢山ある。冒頭の弥生時代、倭国から漢に派遣された使節が感嘆したように排せつ後の肛門払拭は地域によっても異なるものであった。現在もそれは変わらないと思う。
さて、日本では肛門払拭に、大昔は、竹木ベラ、大きな柏や桑の葉っぱ、縄などが使われたらしいが、近世(江戸期)にはいると、紙が使われる様になった。明治に入ると各地で新聞が発行されて、古新聞紙が出回り始めていたから、古紙を落し紙に使うのは浸透していたものと見える。私共の記憶は昭和期からしかないが幼児期一人で便所に行ったときは古新聞を小さく切ったものを使っていた。終戦後も暫くは古新聞だった様な気がする。
昭和30年の経済白書で政府は「もはや戦後ではない」と謳いあげたが、このころから、日本の産業も回復して紙の使用量も増え、製紙業界も多種多量の紙を生産するようになった。資源節約の観点から使用済みの古紙を再生利用する方法が考案され、古紙再生が企業も増えた。古新聞を家庭企業から回収し、落し紙(トイレットペーパー)に使う方法が考案され普及しだした。この再生紙、最初は薄グレイのザラ紙で所々に生の新聞が残っている代物であった。新聞紙や初期の再生紙は、排水管に詰まる恐れがあるため水洗便所には使えず、汲み取り便所専用の落とし紙であった。既に水洗化していた都会ではどの様な紙を使っていたのだろうか。高価な桜紙や輸入品を使っていたのだろうか。田舎者には判らない。
その後、徐々に技術が進み、漂白したソフトな紙に変わり、ロール状になったり、二重紙になったり、ミシンが入って切り取りやすくなったり、色や透かしが入って目を楽しませてくれるものが次々にでてきた。