水まわり、昭和の記憶・・立川など 2015.8 名誉会員 安藤 茂 | ||
1,記憶の背景(戦前) 今年、私もとうとう喜寿を迎える年齢になった。小学校(当時は国民学校と言っていた)に入学した年の夏、終戦を迎えた。 生まれた時は既に日華事変がはじまっており、3歳の時に真珠湾攻撃があって日本は太平洋戦争に突入した。だが私にとって開戦初期の戦争記憶はマダラ模様である。 生まれたところは飛行場がある立川であった。はじめ駅近くの借家に住んでいた。この頃父親に連れられて電車に乗り、靖国神社に参詣した事がある。空中戦や海戦をベニアの看板と模型で再現しているジオラマの様なものが境内に展示されており、これが妙に印象に残っている。幼児ながらに飛行機や軍艦が動くのが面白かった。 昭和18年になると飛行場拡張や周辺地整備のためか強制疎開にあい、家を追い出された。同じ市内の郊外部に引っ越した。すでに戦争は熾烈を極めており、山本五十六の葬儀が粛々としかし盛大に行われた年であった。家財道具を山のように積んだリヤカーの後ろを幼い妹たちと押した事は覚えている。昭和19年から20年になると飛行場のある立川も焼夷弾による空襲や機銃掃射を受け、度々防空壕に逃げ込んだ。崖渕に掘った横穴式の防空壕が空爆を受けて崩落し、40~50人の住民が亡くなった。 立川には新宿から甲州、信州に向かう中央線の駅があり、ここから南武線や青梅線、五日市線が分岐するターミナル駅で有名であった。また立川飛行場の足元の町として賑わいを増しつつあったが市制を敷いて僅か数年たったばかりの頃の事、まだまだ田舎の町であった。都市計画も未成で、郊外では桑畑・麦畑を切り開いて区画道路を造り、宅地造成が盛んに行われていた頃である。 飛行場も農地や雑木林を開いて造られたから排水施設は不十分であったようだ。立川のもとの集落は多摩川左岸の河岸段地の上に開けていた。飛行場造成で農地・原野は裸地となり、冬から春先、北風が吹くとローム土が舞い上がり、北の空は赤い土埃で真っ赤に染まった。家の中にも土埃が積もった。飛行場の排水路は新たに掘られた水路で、北の砂川地区から南下し、段丘の崖で滝を造り、落下後は崖下を流れて、下流で多摩川に合流していた。飛行場内と街中の水路を「残堀川」といい、崖下の水路を「根川」と呼んだ。根川の川岸には桜が植えられ花見の名所になっていた。 飛行場の造成で造られた残堀川は流出係数の増大で降雨を呑みきれなくなったのだろう。駅北口の曙町では少し強い雨が降ると床下浸水が起こり、その常習地帯であった。駅から北に延びる大通りは雨降りの度、いつも水に浸かっていた事を覚えている。 このため、陸軍か、都か市かは判らないが、戦時中、役所の手で飛行場から東に向けた新たな水路が掘り進められていた。強制疎開の前、私はその工事現場を見に行って迷子になり、大泣きしてウロウロし、交番に保護された思い出がある。東に向かって国立との境界付近を南下するこの水路は完成後「緑川」と呼ばれた。緑川は戦後蓋が掛けられて上は道路になり、重要な幹線街路となっている。郊外に移ってから、小学校、中学校、高校と、大学生になるまで、私はこの地で育った。だから立川はわがふるさと(故郷)である。 終戦後の、駐留軍の進駐、「ギブミー・チョコレート」の世界、ヤミ市、コールガール(パンパンと言った)の闊歩、立川高校生徒による風紀浄化運動、朝鮮動乱時の激しい飛行機騒音、砂川基地闘争など、ひとつひとつが 吾が青春の思い出の1コマ1コマとなっている。まだ爆騒音に明け暮れている時期、私は大学進学とともに立川を離れた。爾来、立川は「遠きにありて思う」故郷になっている。私自身は、立川を出て品川、赤羽、大阪堺、守口、東京日野、王子、つくば、練馬と転々と移動して昭和を過ごし、今日に至っている。この間、仕事柄、水にまつわる事どもをしっかりと経験してきた。 2,基地の街 立川 終戦から巣立ち迄(昭和20~30年) 昭和20年代半ば、立川飛行場は進駐軍に接収されて、空軍の輸送用基地となった。おりしも昭和25年には朝鮮動乱が勃発、朝鮮半島に物資や人員(兵士)を輸送する航空機の離発着は猖渇を極めた。立川飛行場の滑走路は南北に延びる一本で、その延長線近傍には民家、学校が密集していた。わたしが通っていた新制中学校(立川一中)や立川でもっとも古い小学校(柴崎小学校)は絶えず騒音に悩まされていた。大型のプロペラ輸送機がり離発着する度に、窓ガラスは振動し、先生の声は通らず、授業は中断された。基地の街、立川は悪い方ですっかり有名になった。騒音に対する環境基準等ない頃のことである。 3,地下水汚染 昭和25年頃 さて、そんな基地の街で異様な事件が起こった。滑走路の南側に広がる富士見町一帯の井戸水に異常が生じたのである。この辺では地表に降った降水が地中に浸透し、河岸段丘を構成する関東ローム層の下の砂利層に滞水、ゆっくり南の多摩川に向かって動いている。これが地下水脈で、各戸の井戸はこの水を汲み上げていたわけである。 井戸水の異常は初め水を口に含むと軌発油(ガソリン)臭が鼻腔を通り抜けるというものであった。だんだんとその臭気は強くなり、鼻を近づけただけで油臭を感じ、ついには、汲み上げた水に火を近づけると燃えるようにさえなった。市役所は緊急処置として給水車を出動させて住民に配るとともに原因の究明に全力を挙げた。当時、東京都、厚生省等の担当部局、大学の地下水専門家が調査に当たったようである。調査の結果、どうやら基地内の航空用燃料タンクから漏えいしているらしいことが判明した。直ちに、基地内タンクでの対策が取られたようだが短時間で地下水は正常に戻らず、給水車の出動は長く続き、住民は暫くの間飲み水に不自由をきたすことになった。まだ水道のなかった立川市だがこれを契機に水道敷設計画が練られ、国(防衛施設局)の財政的援助もあって直ちに工事が始められた。神社の裏、鎮守の森の一角に150mの深井戸が掘られ水源とされた。わたしたちはその工事の模様を再々眺めに行った。給水管の敷設工事も市内道路のここかしこでおこなわれ、街中が掘り返されていた記憶がある。立川市(旧市)内の水道はこのガソリン汚染をきっかけに戦後急速に整備されたのである。 4,入浴と銭湯 昭和30年前後 街中には小学校の学区内に2~3軒の銭湯(風呂屋)があり、市民は2~3日に一度皆銭湯に通っていた。私もある時期、歩いて10分ほどの距離にある銭湯に通った記憶がある。当時発売されたばかりのプラスチック製の洗面桶にタオルと石鹸箱を入れ、カタカタ音を立てながら夜道を父親と通った。まさに「神田川」の世界である。 銭湯では大きな浴槽の上の壁面に富士山と松原とかの山紫水明を表す風景画描かれており、いまでも図柄が目に浮かぶ。湯あがりに飲んだ果汁入り牛乳が冷たくて本当に旨かった。今ならビールか発泡酒なのかもしれないが。銭湯に行くのが面倒であったり、人目に裸体をさらすのが嫌な人は、隣近所で自家風呂を持つ家に頼み込んで「貰い風呂」で入浴を果たしていた。小学校時代、仲の良い友人の家に泊めさせてもらった事が何度もあるが、そんな夜も隣家の家族(かわいい女の子もいた)が入れ替わり立ち替わり貰い風呂に来ていたのを思い出す。 5,トイレ 終戦後~昭和30年 わたくしの母親の実家は甲州街道沿い日野宿本町にある中規模農家であった。家は中央線日野駅のほど近くにあり、すぐ側の盛土の上に敷かれた鉄路を結構頻繁に電車・汽車が往来した。列車が走りすぎると、その警笛が聞こえ、車輪の振動が感じられるようなところであった。わたしが小学生のころまではその実家は藁葺屋根の本屋(おく)には便所も風呂もなく、それらは別の小屋(建物)に作られていた。本屋を出て暗がりの庭をつたって風呂や便所に行くのは辛かった。冬は寒いし、夜は暗くて怖かったからである。就寝前に尿意を催すと縁側の片隅に立って庭先に放尿していた。農家でも家によっては本屋(ほんおく)のなかに双方を設置する家もあり、それぞれ内風呂、内便所と言った。田畑(でんぱた)は近郊各所にあり、従姉弟達のところに遊びに行くとよく畑に連れて行かれ、簡単な農作業を手伝わされた。屋敷は母屋といくつかの別棟からなり、それぞれが茅葺屋根であった。別棟は納屋と作業道具倉庫、外便所、外風呂であった。それらが敷地中央の作業用の広場(庭)を囲んで立てられていた。井戸は屋敷の片隅にあり、水汲みの効率を考えてお風呂小屋はその近場にあった。母屋にも内便所はあったようだが使用したことはない。母屋の屋根裏には蚕の飼育場があり、季節によっては蚕が桑の葉を食む驟雨の様な音が寝所まで聞こえた。 さて、別棟になっている外便所であるが奥行き4尺X 横幅1間半(1.2m X 2.7m)角ぐらいの小屋を3つに分け、一つは大便所、一つは小便所、もう一つは貯留便槽室として使っていた。便貯留槽は畑にまく肥料として糞尿を利用する前に熟成を図るためのものである。畑にも肥だめ(野坪)があって、そこでも熟成を図っていたが仮置きにこの脇便槽を使っていたのかもしれない。 大便所はもちろん和式であり、木製の床ゆかに25cm x 60cm程の穴を切り、前方に高さ30cmの板を据えて「金隠し」としたものであった。大便所と小便所の間には薄暗い裸電球が吊りさげられていた。 外便所には勿論土足で入れた。これは中庭での農作業中に便意を催したとき、すぐ利用できるようにしたためである。床穴の下を覗くと最近の糞尿が山を作っており、臭気もひどかった。夏場は便槽内では蛆虫がうごめいており、糞蝿と呼ばれる大型の蝿や蜂・虻が身の回りを飛びまわり怖かった。床にはコオロギ類の虫も飛びはね、田舎の便所に行くのは本当に嫌だった。当時はトイレットペーパーなどなく尻拭きには古新聞が使われていた。古紙を再生した鼠色の四角い「落とし紙」が手に入るようになったのは戦後数年してからの事であった。 6,駐留軍キャンプの下水処理 昭和25年頃 戦勝国の欧米各国は進駐してくると直ちに自分たちが寝起きする宿舎・キャンプを設営した。工兵隊が宿営地キャンプの基本計画を作り、宿舎の配置や間取りを設計して日本の土木建築企業に発注して造作をさせたようである。彼らのキャンプは治外法権地区であり、その施設・設備は文明国たる彼らの流儀で設定がなされた。宿舎のサ二テーション(水道給水、手洗い、バス・シャワー、トイレ)は当然、欧米で使われているシステムや器材が使われた。欧米先進都市の衛生システムがそのまま取り入れられたのである。 私が子供の時垣間見たその例と沖縄返還の際に知った例を以下に紹介しておくことにする。 立川市の西部は飛行場と富士見町と言う市街地・農地で構成されていた。富士見町は、2段に分かれ上が河岸段丘の(武蔵野台地)で、下は低い多摩川の氾濫原からなり、氾濫原は堤防によって田畑や集落が守られていた。 立川基地は現在の昭和記念公園を含む旧日本陸軍の飛行場で、戦前から軍施設であった。 駐留軍は立川に進駐すると直ちに空軍輸送基地として整備をはじめ、基地内に兵営キャンプや家族ハウスを造った様である。基地司令官及び幹部の宿舎は多摩川を渡った日野市にしつらえた。JR中央線日野駅のすぐ東隣、高台から立川市街地を望む景勝地である。日野の宿舎はさて置き、基地内で排出するし尿や厨房排水、洗面所排水、バス・シャワー排水はどうしていたのだろうか。軍属・家族及び基地に雇われている日本人労働者は数千人に及ぶから一人平均250リットルとしても排水の量は日量250~500トンになる勘定である。定かではないがどうやら彼ら進駐軍は自国の流儀に基づいて下水道(汚水管)を敷設し、端末で処理施設を設置した様である。基地から発した下水道は市内の道路を最短距離で南に向かい、河岸段丘の崖を削って中段に平地を造り、ここに小規模な下水処理施設をこしらえた。立川市富士見町4丁目地先であった。キャンプ地の下水発生点ではポンプ揚水したかもしれないが、地形は南に向かって下っているので、自然流下で下水は流れ、処理施設の中でもポンプを使うことなく処理工程を流下させていたようである。処理の方法は固定式ノズルを用いた散水濾床方であった。 当時、私は小学校の4年生か5年生だった。夏場、近くの東京都農業試験場の地下水をくみ上げて温める池に泳ぎに行く時、この処理場に面した坂道から施設を眺めたものである。下水処理などと言う概念は知らないから、きれいに並んだノズルから噴き出ている水を見て変な噴水だなと思ったものである。 後年、大学で衛生工学を学んだとき、教科書に描かれた固定ノズル式の散水濾床の図面を見て、あっ、これだったのかとびっくりした。きれいな噴水ではなくて下水を噴き上げていたのであった。
購入して間もなく、東京へ転勤となり、バスオールとの付き合いは短い期間で終わった。バスオールは同じ職員住宅の人に譲った。 先日インターネットを見ていたら、驚いた事にまだこのバスオールを使っている人がいるらしい。 TV番組などで、漫画家や芸能人が世に売り出る前の貧困時代、キッチンの流しで水浴した記憶を語っている。それよりはましだと思うけれど。 あとがき 以上、私の頭の中にまだ鮮烈な記憶となって残っている水まわりの体験の一端を書き連ねてみた。 生活にまつわる水まわりの機器や道具は今なお日進月歩である。これからもきっと新しい体験が出来るのではないかと期待している。 |