─戦争直後の滋賀県農村の生活用水や桶風呂の思い出−   樋口 寛
 2019.3        
 戦後私が6才で母親と中学生の姉・兄と満州から引き揚げて、滋賀県湖北地方の東浅井郡(現在の長浜市浅井町)の父親の実家に、8月から翌年2月までの半年間身を寄せた。この時の生活体験や、風呂の様子および水処理などの記憶をもとに、現在博物館などにある資料を含めまとめた。
 飲料水は屋内の井戸(竹の先に付けたバケツによる汲み上げ)からの水を瓶(かめ)にいれ、それを料理などに使用し、食後の鍋釜や茶碗・皿などは家の横を流れる幅1b程の小川で洗っていた。当時は食品も油ものなど無く、洗剤も使用していなかった(汚れの落ちにくいときは灰をこすって使用)ので綺麗な小川だった。
 風呂は桶風呂で、(写真参照)水は井戸からバケツで5〜6杯程運び、割木を使わず藁を燃やし温めていた。桶風呂に入るのには前面の観音開きの扉を開けるだけでは入れないので、丁番の付いた天板の蓋も開け入った。釜の鉄の底が熱いのですのこが張ってあり、そこへ座った。お湯は腰くらいしか無く、扉や蓋を閉めると上半身は蒸気浴であった。当時はタオルでなく手ぬぐいを持って入り、お湯をすくい上半身にかけた。風呂の電灯は20W位の薄暗いぼんやりしたもので、浴槽の中は何も見えなかった。顔近くの観音扉を開けると、浴室が見えた。祖父、伯父夫婦の家族、私の家族を含めると10人になり、お湯は相当汚れていたはずだが、暗くて汚れなどは見えなかったし、子供心には分からなかった。母などは風呂で石鹸を使って頭を洗えないので、タライにお湯を張り洗っていた。
 滋賀県立琵琶湖博物館の資料や写真から調べると、鋳造のマンホールの蓋を裏返しにしたような平釜の上に、底のない丸い桶を重ねた構造になっていて、滋賀県内の地域によって種類が色々あったようだ。彦根、八幡など湖東地方では天井まで板の張った樽を使ったもの、野洲・栗東などの湖南地方では樽の上の天板の代わりに竹笠を被せた構造のものもある。風呂の排水やタライで洗った洗濯水などは、庭に掘った畳1枚ほどの浅い穴に流し込み地下浸透を含め、畑への散水に使っていた。横の小川の水は先にも述べたように上下水分離されており、きれいな清水が流れていた。
 現在の上下水道や生活レベルと比較すると、70年程の間に天と地ほどの差があり、良い時代になったと思う。
  (写真は何れも滋賀県琵琶湖博物館所蔵資料と展示物)

 琵琶湖博物館の展示パネルから
    桶風呂の説明
    桶風呂を使用していた地域
    桶風呂の作り方