-−水回りの思い出− ─栃木県中山間部と東京の生活─ 石川 忠男 |
2014.11 |
1.井戸水運び 昭和26年小学校2年生の3月東京に転居するまでは栃木県安蘇郡葛生町のさらに字、大字がつく散居集落に住んでいました。水道はもちろんありません。井戸水を使うのですが、山の中腹に戦後建てられた家には井戸がありませんでしたから近くの井戸のある家からのもらい水です。近くと言っても200メートルほど離れた川筋の低い場所です。そこから20メートルほど登りになります。 水運びの手伝いは子供に課せられた仕事でした。2歳上の兄は、天秤棒にバケツ2杯を前後に懸けて運んでいました。私はまだ小さかったのでたまに小さいバケツを一つ持たされてわずかながらの手伝いをする程度でした。お風呂と洗濯は近くの母の実家で済ませていましたから炊事、洗面が主要な用途ですがどのくらいの量だったのでしょう。 東京に来て驚いたのは水道があることでした。水運びの仕事はなくなりました。学校の社会科の授業で「皆さん!水はどのようにして得ますか?」の質問に「えどから汲みます」と答えてなまりを笑われたことが心の傷になったことが今でも思い出されます。先生が「江戸っ子はお姫様をおしめ様という」とフォローしましたがさらに塩をもみ込まれた感がありました。 2.水洗便所 転居したところは 新宿区早稲田南町ですから東京でも中心に近いところです。それでもトイレは汲み取りでした。昭和28年?頃下水道の工事があり水洗便所になりました。それまでは忘れたころに汲みとりが来て、近所一帯が臭いで大変でした。 大八車に肥桶をたくさん積んで街中を運んでいる光景が見られたものです。友達たちは「田舎の香水だ!」と呼んでいましたが余り良い表現とは思いませんでした。 3.川遊び 利根川の支流渡良瀬川、さらに支流の秋山川、その又支流の小曾戸川が子供時代の川遊びの舞台です。川幅数メートル、水深10〜20センチのせせらぎです。夏場は田んぼに水を引くため堰き止めますので場所によっては水深50センチほどのプールになります。 そこで多くの子供が水遊びをして楽しみます。耳に水が入るので草の葉っぱをもんで耳に詰めたりしていましたが果たして耳栓の効果があったのか疑問です。 4.沢ガニとりで命拾い 5〜6歳のころ、梅雨時の田植えシーズンでした。実家の祖父母、伯父夫婦、父母他一家総出で田んぼに出かけます。私も付いていき、「川で沢ガニとりをしたい」とぐずりましたが霧雨でしたので止められ家で留守番となりました。 ところがついて行ったら命がなくなっているところでした。降り続いた梅雨の水を含んだ田んぼの横の山が山崩れを起こしたのです。崩れた土砂、泥水で田植えをしていた一家は押し流され首まで埋まってしまったということです。もし私がついて行ったとしたら田んぼと山の間の川で沢ガニとりをしていたでしょうから、完全に生き埋めになっていたでしょう。「親の意見と霧雨は後で効く?」 5.工場の貯水槽で水泳 葛生町は石灰石のとれるところでその関係の工場がありました。その用水をためる縦15m、横7m、深さ2mほどのコンクリートの貯水槽がありました。真夏になると近在の水餓鬼が集まって、裸の社交場となります。はじめは壁につかまって水につかるだけですが、だんだん慣れてくると壁から手を離し、壁をけって斜め横の壁まで進むようになります。 そうこうするうちに見よう見まねで手足をバシャバシャ動かしてもう少し長い距離を進むようになります。そして夏の終わりくらいになると水槽の横の距離を、息継ぎをして泳げるようになります。これが私の水泳の事始めです。 小学校3年生、東京に転校して初めての夏、学校の水泳の時間に「泳げる人、手を挙げろ。どれだけ泳げるか泳いでみろ」との先生の号令でクラス50人ほどいる中で10人ほどが参加してスタートしました。25mで半分が止まり、折り返して50mでは殆んどが止まったようですが、それを知らない私は先生から止められるまで死ぬ思いで泳ぎました。結果225mと自分でもはじめての長い距離を泳いでしまいました。これがその後の人生を変えることになりました。 2014.11.11.記 |