国立と中野の思い出                亀田 泰武 
                                                  2014.10/2018.9up         
1,国立のこと
 最も古い記憶があるのは国立の借家であった。疎開しているうちに新宿の家が焼かれ、母親がやっと見つけたのが砂塵がすごい広い道から脇道に入った国立駅から5分くらいの畑の中、井戸のまわりに5~6軒の借家があるところで、通りの反対側に一橋大学のテニスコートがあった。2間くらいの狭い家で祖父夫婦、と親子4人が暮らしていた。今思うとあの狭いところで6人どうして暮らしが出来たのか不思議である。焼け出された親戚一家が一時滞在したこともあったという。父親の給料では足らず、カメラなど売って竹の子生活もしていた。
 食べ物が極端に不足している中で生まれたせいか体が弱く、生まれて2週間ほどでもう風邪を引き、医者にこの子は育ちませんよと言われたそうで、子供の頃2回死の淵まで行った。学校に通うのが精一杯で部活などする余裕もなかったし、30才までしょっちゅう風邪を引いたり、当時は分からなかったがひどい偏頭痛などてそのたびに数日休んでは職場に迷惑をかけていた。この年まで生きていられるのが実にありがたく、親に感謝している。
 もちろん風呂もなく、駅近くの銭湯に行っていた。井戸は共同で水を汲んで各家にバケツで運んでいた。井戸のまわりが子供の遊び場になっていた。台所の水は家から3mくらい離れた畳1畳分くらいの池、吸い込みといっていたと思う、に流していた。武蔵野平野は割に水の浸透能があったのでこういうことができていたとおもわれる。使う水の量が少なかったのでそこで充分浸透していた。隣の家との間が通路になっていて井戸のある広場から台所や庭に通じていた。ある時そこにトタンの管が設置された。井戸で汲んだ水を玄関近くの受け口に入れそこから台所の水溜まで流すものであった。
 トイレは当時の標準的なもので廊下の外側にあり、下から押すと水が出てくる手水があって、水は庭に落ちるようになっていた。
 屎尿と吸い込みの泥はおじいさんが汲み取って、借りていた畑にまいていた。当然衛生状態も悪く、回虫やギョウ虫が居候していた。ある時庭で遊んでいたらお尻の穴がむずむずして、なんと5cmもある元気な回虫が出てきたのを憶えている。
 貧しさの中であったが農村地帯であったので、おじいさんが鶏やウサギを飼っていたし、ネコもいたのは良かった。
 一匹目のネコは大変可愛かった。ある時皆で風呂に行く時途中までついてきてしまい、それ以来帰ってこなかった。2匹目のネコは一度ネズミを捕まえて食べているのを見たことがある。解剖するようにきれいに食べていた。ただ、こたつの中で一酸化炭素中毒になって死んでしまった。こういう経験が教訓になる。
 公務員生活が終わって時間が出来た時、昔の家を訪ねてみた。道路だけはあったが、すっかり、住宅地になっていて昔の面影は全くなかった。

2,中野の生活
 小学校2年(昭和26年頃)くらいのときに中野坂上に越した。新宿から荻窪までの都電、バスが走っていて、中野坂上の交差点はロータリーになっていた。トレーラー型のバスも走っていて、出入り口が2箇所で車掌さんも2人いたのを憶えている。昭和二十年代の終わりの頃、なんと先生に皆で交通量調査をするようにいわれ,環状6号の計測チームに入った。自分の担当は、乗用車であったが昼前の30分で、米軍人の1台だけだった。さすが青梅街道は多かったらしいが。
 

東京都のトレ-ラーバス(太平洋戦争後)

(社)日本乗合自動車協会 昭和32年発行「バス事業50年史」から転載

埼玉県HPから

 中野の家はくみ取りトイレであったがだいぶ良かった。3尺四方の朝顔と手洗いの奥に3尺四方の和風便器。風呂はモルタルのたたきに木製のガス釜の風呂桶があり、すのこの上で体を洗った。洗面台もあったと思う。屋根からの雨水は雨樋から庭に流れていた。そのうちに洗濯機が入り、ローラー式の脱水機で衣類を絞る手伝いをよくやった。小さい頃からマヨネーズつくりや山芋のすり鉢すりなど、手伝いはした方だった。
 台所の流しと風呂排水は排水管で下流の水路に流れているようであった。また氷冷蔵庫も入ってきて夏、氷やさんがリヤカーで毎日のように氷を一貫とか半貫とか配達していた。
昭和30年代中頃に入って、付近の下水道工事がはじまった。道路を本管、取り付け管の両方一緒に、肋骨のように掘っていて、長期間開けっ放しであった。皆穴を避けながら歩いていたように記憶している。空き地にヒューム管が積み上げられていて、のび太の世界のようであった。ただ工事が近くに来る前に引っ越しになってしまった。

 昭和30~33年頃神田川沿いにあった中学校の2階から見えた落合の方の丘には戸山ハイツと思える団地があり、そこで丸いタンクの上を棒がくるくる回っていたのを見ていた記憶がある。後にこれが散水沪床とわかった。ここは終戦直後から住宅が建てられ水洗トイレであった。都営住宅の浄化槽の記録を国会図書館や都議会図書館にいって調べても出てこなくて、ネットで調べたら,団地の浄化槽があってgooの昭和38年の航空写真に映っていると書かれていた。gooの写真を見たらなんと山手線の隣に丸い十字の散水バーらしきものがある黒い姿が見えた。ここだと中学校からはとても見えるはずもなく、どこかで記憶が混ざってしまったらしい。どうも昭和37年頃通学で山手線に乗って見ていたことが頭に残っていたらしい。戸山の団地は、米軍放出資材で作った戸建て住宅や6畳と8畳二間に台所、水洗トイレ、ベランダ(風呂はなかった)などがあるアパートなどが並んでいた。       goo古地図
戸山ハイツ goo古地図(昭和38年)から 中央を走っているのは山手線。その脇にある黒い丸が散水沪床らしい