信州安曇野での水回りの変遷                栗原 秀人 
                                                  2014.10         
1、下水道のなかった頃(昭和30年代〜40年代前半)
 私の故郷は信州安曇野、子供の頃は水道も下水道もなかった。扇状地の真ん中、扇央に位置していたから井戸もなかった。生活用水は家から60m位離れた用水路から汲んで水瓶に貯めていたが、水汲みは子供の仕事、天秤棒の両側にバケツを掛けて、何回も用水路まで通った。三日に一回くらい沸かす風呂の水ももちろん水路から汲んでくるが、何回運んでも一杯にならず、周りで遊んでいる友達が羨ましかった。そんなに苦労して手に入れた水だから大切に使っていた。野菜を洗った後の水で茶碗を洗うのは当たり前、風呂の水も掃除や洗濯に使い、最後は庭の野菜畑や花畑の水やりに使っていた。それでも流しの排水はどうしても出てしまうが、庭の排水口には古くなった手拭いを袋状にしてぶら下げて、固形物を濾しとっていた。いわば「しさ」の回収であるが、回収されたしさは庭の畑に肥料として埋めていた。しさの濾しとられた汚水だけが地下に浸透されるようになっていた。礫河原の上の扇央にあるから排水は浸み込みやすかったが、下流では湧水を用水として使っていたから流す水にも気を配っていたのだと思う。大量の水を使うときは、母たちは野菜や食器、洗濯物などを用水路まで運んで、そこで水仕事をしていたが、使った後の水が用水路に戻らないよう反対側の田んぼに捨てていた。
昭和36年、小学校の4年になってようやく待望の水道が敷設された。子供たちは水道のことを「ひねるとジャー」と呼んだが、やっと風呂の水汲みから解放される喜びは大きかった。
水道ができてからややしばらくした頃、用水路の水が汚くなってきたのが気になった。
我が家では風呂も毎日沸かすようになったし、洗濯機も買った。今までとはくらべものにならないくらい水を使うようになったが、用水路からの水汲みはなくなった。生活用水を供給する用水路の役割は終わったのだった。農業用水としては使われていたが、「○○さんちのばあさまが、水路の中でオシメを洗ってたじ。」「△△さんちじゃ、死んだ子豚を川に捨ててたんね。」、子供の眼にも用水路が粗末にされるのが明らかで、用水路はどんどん汚れていった。
やがて扇央にあって、排水は大丈夫だと思っていた我が家の天然の地下浸透式排水に異変が生じてきた。水道を使うようになって増えた大量の排水を飲み込みきれなくなって、ついに庭先に溢れるようになり、悪臭も漂うようになってきたのである。そこで父と兄と私は、庭先に幅2m、奥行き2m、深さ3m位の穴を掘り、そこに近くの河原から拾ってきた石コロを投げ入れ、人工の浸透式排水を造ったのだが、この排水を「地獄」と呼んでいた。この地獄も、何年かするとやがて詰まってしまうようになり、次から次へと場所を変えて何回も掘りなおしたものである。排水先がなく地下浸透させていた家は、どこでも同じような状況だった。川や水路が目の前にある家では雑排水を直接流しているところもあった。
私の家から遠く離れた下流にある穂高駅や役場周りの街場では汚染がもっと激しく、悪臭漂う開水路を、都市下水路事業で暗渠に改修し蓋掛けをしたが、町民からは大歓迎された。

2、穂高方式による挑戦と本格下水道への転換(昭和40年代後半から)

 昭和40年後半だろうか、ついに下流の湧水群に異変が起こってしまった。上流から流され、あるいは地下浸透してきた生活排水で湧水が汚染され、名産のわさびやニジマスに病気が発生してしまったのであるが、この湧水は後に名水百選となる「安曇野わさび田遊水群」である。
昭和50年頃、汚染を案じた穂高町は雑排水対策に乗り出すのだが、各家庭ごとに横1m、幅50p、深さ50pの簡易ろ過沈殿槽を設置し、二区画に区切られた片方の槽ではネット袋に入れた砂を沈めてろ過し、ろ過後水を残りの槽で沈殿させてから放流または地下浸させるというものである。月に一回、町が特殊な車両でろ過ネットの洗浄交換にきて、洗浄排水と沈殿汚泥の回収を行い、回収された汚泥等は畜産堆肥と混合され、コンポストとして地域の農家で利用されるシステムであった。この方式は、「ミニ下水道穂高方式」と呼ばれたが、折しも大規模流域下水道批判が盛んな時期と重なって、全国から視察が相次いだ。
穂高町の協力を得て、当時の土木研究所では長期間の、時には泊まり込みの実態調査を行ったが、「ろ過砂を洗浄交換した後の10日間は、そこそこの除去効果は認められるが、それ以降は目詰まりがあってろ過効果は期待できず、さらに槽が小さく沈殿効果はほとんど期待できない。」というものであった。こうした結果等を踏まえ、遊水群の保全、快適な町民生活の確保、リゾート観光地としての価値の向上等を目的に、昭和60年頃になって穂高町は本格的な公共下水道建設の決断を下していくことになる。
現在、穂高町は合併して安曇野市となっているが同市の下水道普及率は87%となっている。
かつての悪水路にも清流が蘇り、農薬使用制限とも相まって、一時は姿を見せなくなったホタルも舞飛ぶようになっているという。