─東京 板橋区 昭和20年代─        佐藤和明
 2014.10      
私の父は浅草で大工の家を継ぐこととなっていたが、世の中が不景気であったので、軍人に志願し海軍工兵となった。霞ヶ浦航空隊に勤めていた時期に家庭を持ったので、戦後私は土浦で生まれることになった。しかし、物心がついた時は東京の板橋区に住んでいた。であるので、東京の下町でもあり新興住宅地でもあった板橋区における昭和20年代の思い出を紹介する。
 昭和20年代最初に住んだのが板橋6丁目、国鉄赤羽線の脇に大きなガスタンクが見えるところで、“下町の太陽”の賠償千恵子嬢も近くにお住まいであったはずだ。この地区ではその時期水道が整備されていた。多分かなり前からであろう。しかし、この地には2年ほどいただけで昭和26年、都立豊島病院に近い板橋区栄町に移り住むこととなった。ここは新興住宅地で東北方面から東京に出てきた家族が多いように見受けられた。
さて、栄町に移り住む前に私達家族はやはり板橋区のもっと埼玉寄りの志村で、伯父さんの家に数か月仮住まいをすることになった。6丁目の家を取り壊した材木も使って栄町の家を建てたようなので、その間の一時住まいであったようだ。しかしこの志村、当時は板橋区でも田舎の地、井戸を中心とする生活を垣間見ることができた。間もなくこの地にも水道が整備されたが、水道水は薬臭いのでこれまでの井戸の方がよい、というような話も耳にした。そんな当時田舎の志村の地まで家財道具を積んで馬車で揺られて行ったような記憶が微かにある。のどかな時代であった。
昭和20年代、栄町では水道は整備されていたが、住宅の排水はどうなっていたのか。当初は家の前の溝に排水をしていて、その溝にはアメリカザリガニが生息していた記憶がある。近くにはまだまだ畑なども多く残っていた状況であったので、間違いはないだろう。家の前の道路は私の小学校入学(昭和28年)と前後して、近くの保育園に皇后さまが行啓されたのを契機として舗装がなされたが、同時に家の前の溝にU字溝が整備された。この側溝は町内会の清掃活動でよくドブさらいをした。側溝でも流れのあるところではイトミミズがゆらゆら揺れていて、これを金魚のエサとして採取したものだ。しかし、最近ではこのイトミミズとんと見なくなった。
板橋区のこの地区の下水道整備は私が大学に入学した当時(昭和41年)に前後して行われたのではないかと思う。しかし、水洗トイレになったという感激は覚えていない。下水道が整備される前に内風呂はあったし、学校やデパートで水洗トイレ自体は経験していたということがあるかもしれない。こんな生活の革命と思われる事象に殆ど無頓着でいられたのは、便利とか文化的とかいう価値観を超えて、山だとか自然に傾倒する若者であったせいでもあろう。