─戦後の京都市自宅の上下水─        清水 洽
 2014.10      
 私の生まれは昭和17年です。京都市左京区の下鴨神社近くの北大路通りからひとすじ北の自宅で生まれ、大学院を修了する昭和42年まで住んでいました。私の記憶では水道とガスは整備されていましたが、下水道は整備されておらず、昭和45年ごろ整備されたと思います。

 ・上水
市内には岡崎のインクラインを起点に南禅寺から北白川を通り松ヶ崎浄水場まで白川疎水が流れており、私の自宅のそばには、松ヶ崎浄水場から出た疎水が北大路通りをくぐり賀茂川に流れ込んでいました。この川沿いの桜並木は今も散歩道として整備されています。
松ヶ崎浄水場からの上水は、京都五山の送り火で知られている‘妙法‘の‘妙‘の字の松ヶ崎狐坂あたりに整備された配水池にポンプアップされ、市内に配水されています。戦中戦後には停電がよくおこり断水が度々ありました。その時は2軒隣の井戸水をもらいに行きました。戦前戦後には隣近所との連絡は密で、お米や醤油の貸し借りをしていましたし、私の家には電話があり、近所の人がよく借りに来ていました。

・下水
 一方、便所はボットントイレで、小学校時代には地主のお百姓さんが汲み取りに来てくれていました。京都の自宅は間口が狭く奥行きが長い作りで、一番奥に五右衛門風呂と小、大の落し便所があり、お百姓さんは裏の畑から肥え桶で汲み取ってくれていました。戦中戦後は自宅で風呂を沸かす事が出来ず、風呂屋に出かけていましたが近くになくあちこちの風呂屋に行った記録があります。
当時の家は隣同士の裏庭がつながっており一度に3軒の便所の汚物を運び出していました。もちろん有料だったと記憶しています。時代とともにバキューム車による汚物の収集が始まり、バキュームホースを玄関から土間の台所経由で便所まで通すため、汚物の収集はおおごとでした。
 下鴨の下水道整備時には、私は大阪府高槻市に住んでいたので自宅の改造には参加していませんが、玄関の隣に洋式トイレを、台所は板の間に、奥の風呂はユニットバスに改築されました。今でも思い出すのは、私の家内は京都市の吉田神社の近くで、中学時代には水洗化されており、下鴨の私の自宅での便所には苦労したそうです。
 台所や風呂の汚水は玄関の側溝に流れ近くの泉川に排水されていました。この泉川は ‘街の水辺(日本編)‘に掲載されていますが、京都市高野川山端(やまばな)橋の井出ケ鼻水門から松ヶ崎、下鴨を通り賀茂川にそそぐ水路で、住宅化されていなかった小学校時代は、我々の遊び場で、ヒルに吸い付かれながらの魚取り、蛍狩りが出来ました。高校、大学時代にはこの地区の市街化が進み、下水道が完備するまでは悪臭のする都市河川となり、魚取りで水に入ることはできなくなっていました。今は、水質は良くなりましたが、コンクリートの都市水路になってしまい、蛍狩りなど夢物語です。
 当時の生ごみは畑に穴を掘り肥料にしていましたし、新聞紙はトイレトペーパと包み紙に利用し、その他のごみは庭で焼いていました。