─佐渡の水回りの思い出─        渡部春樹
 2014.10      
 年に数回田舎へ帰る。田舎では母が介護施設に入っているので、顔を見せるため、あるいは顔を見るためである。私の田舎は佐渡島で、家の周りの風景は現在も子供の頃とあまり変わらないように思う。集落の周りは田んぼに囲まれており、百年前からそれ程変わっていないのかもしれない。家は大佐渡と小佐渡の山に囲まれた平野にあり、近くには「山王さん」と呼んでいる日吉神社がある。鎌倉時代の初期に近江国日枝神社に田を寄進して荘園になり、神社が建立されたそうである。子供の頃は毎年盛大に山王祭が開かれていた。
子供の頃は母屋と便所が離れており、便所には電灯が付いていなかったので夜中に便所へ行きたくなるとまっ暗で怖かった。私は子供の頃婆さん(祖母)に育てられたので、夜中に便所へ行くときは提灯にろうそくを灯して一緒に行き、待っていてもらった。また、婆さんは「振りかけ水をするな。」と盛んに言っていた。子供は手が濡れるとすぐに手を振るが、その水を他人にかけるなということで、自分に1回水がかかると1回返し、2回かかると2回返していた。理由はよくわからない。小学校の頃には、手押しポンプで井戸から水をくみ上げて風呂に送るのが私の仕事であった。数10回ポンプを上下する作業は、子供には重労働であった。それから薪で風呂を沸かした。ある時、親父と一緒に風呂に入っていて、急に小便がしたくなった。湯船の中ならわからないだろうと思い小便をした。しかし、臭いは湯気と一緒に上がり、見つかって怒られた。それ以後、湯船の中でするのは止めた。

 小学校4年生の頃(昭和34年頃)に校舎が木造から3階建ての鉄筋コンクリートに建て替えられた。その時に、便所が水洗になった。汲取り便所だった頃で、使い方はみんな知らなかったので講習を受けた覚えがある。小学校、日吉神社、病院と続いてさらに下流にわが家があった。裏に水路が流れており、水路の底が水綿状のもので非常に汚れていたのを覚えている。この汚れが水洗化と関係あるかどうかはわからないが、他の川の堰にはカワニナが折り重なる様にいっぱい張り付いていた。それから小学5あるいは6年生の時に、集団赤痢が発生した。学校給食はあったが、何が原因だったかは覚えていない。体育館の横の部屋でお尻を出して、棒状のものを入れられ検便を取られて全員の検査が行われた。数日と思うが学校が休みになったので喜んだが、先生からは外で遊ばないように言われてがっかりした。家の周りにはドブ川があちこちにあり、台所等からの排水が流れていた。そんな中で遊んでいたので、バイ菌に対する耐性はかなりあったのではないかと思うが、それでも赤痢が発生して衛生面では今と格段の違いがあったのだろう。集団赤痢があってすぐに簡易水道が整備されて、水の使用量と質は大幅に向上したように思う。