─北海道 冬の便所物語─        山ア 義広
 2014.10      
 私の生まれは、北海道空知郡音江村。昭和38年の町村合併で、いまは深川市音江町となっています。石狩川の上流、旭川に隣接するまちです。私は18歳になるまで、ここで過ごしました。
 小さいときから、山々が芽吹き始める春と近くの川で泳げる夏が大好きでしたが、春と夏が好きな季節であるのはいまも変わりません。小学生の頃は、夏休みになると川に泳ぎに行くのが日課でした。川は地域の子どもたちの格好の遊び場となりました。秋になると厳しい冬が近づいてくるのが肌身で感じられ、子ども心に切ないような気持ちを味わったものです。家々の周りは10月頃から稲藁や蝦夷松などによる冬囲いが始まるのが年中行事でした。冬は、寒暖計がマイナス20度を超える日がたびたびでした。
 そんな厳しい寒さが続く冬、小学生の私は便所に行くのがいやでいやで堪りませんでした。昭和30年代のことです。我が家の便所と風呂は、母屋から3〜5mほど離れた場所にそれぞれ独立したかたちで建てられていて、風呂や便所に行くには、否が応でもしばれる外気に触れなければなりません。特に冷え込む夜には、そこまで行くことを想像するだけでとてもつらい気持ちになったことを昨日のことのように覚えています。

 風呂は五右衛門式で、冬は毎日沸かすのではなく、週に2回程度ですが、五右衛門式の風呂釜の隣にある1m四方ほどの着替えスペースから五右衛門釜に入るまでが、寒くて鳥肌どころではありません。薪の煙にあおられながら五右衛門風呂に入っていたときの心地よさを思い出します。

 便所は、この風呂の2mほど離れた場所にありました。ボットン便所です。冬期間は、周りが雪一面で、便槽の汲み取りをしません。2月頃になると寒さが一段と厳しくなり、便槽のし尿が凍り、便がこんもりと山を作ります。便はそのうち便所の床スレスレまで達し、噴火山の頂きのように盛り上がってきます。そこで、週に一度は火箸のような、直径2〜3pの鉄の棒でこの噴火山の頂きをつつき、山を崩します。
 こんな風呂と便所通いは、学校の入学式が開かれる4月1日間近まで続くのですが、便所へ行くのがいやでいやで堪らなかった私はよく、母屋の出口近くの雪だまりに向かって放尿するズルをしては、祖母や母に黄色い跡が残った雪上を指さされて叱られたものでした。
 この難行から開放される雪解け時には、家の前の砂利道に残る馬橇の轍に川のように雪解け水が流れ、春が来ることを告げます。私の大好きな季節の序章が始まります。