埼玉県流域下水道創成期の時代背景と荒川右岸・中川流域下水道よもやま話
 2016.9.9   松永喜芳 (元埼玉県下水道課長)
平成28年9月9日に埼玉県知事公館で開催された下水道局特別研修における講話記録
 1)埼玉県流域下水道創成期の時代背景
 私は、昭和36年4月に埼玉県土木部計画観光課に採用され、平成4年3月に退職するまでの31年間のうち下水道を離れたのは4年間のみで、ほぼ下水道一筋の公務員生活を送ることができた。
 埼玉県では、34年に下水道係が新設され、私が就職した36年当時は林係長を含め4名の体制であり、県内で下水道事業に着手していたのは11市町、供用していた処理場は川口市領家処理場のみという状況であった。
 埼玉県の中央南部地域は、いわゆる東京のベットタウンとして住宅などが行政区に関係なく連たんしており、合理的な下水道計画が策定できない状況にあった。38年度に建設省において流域下水道事業の構想が企画され、県では荒川左岸流域下水道事業計画のための調査を行い、39年に基本計画を策定している。
 その後、40年に日本で最初の流域下水道が大阪府で着手され、一年遅れて荒川左岸が一部事務組合として実施することになり、国から遠山啓さん、広田公冶さん、斉藤健次郎さんが派遣されてこられた。45年12月のいわゆる公害国会で下水道法が改正され、流域下水道が都道府県事業として成文化されたことを踏まえ、埼玉県の流域下水道の全体配置は、荒川左岸を南部、北部の流域下水道でカバーし、西部の新河岸川流域を荒川右岸流域下水道、東部の中川、元荒川などの流域を中川流域下水道で整備することになった。
 ほぼ同時期に各流域下水道事業がスタートしたこともあり、県の松田下水道課長、柏原補佐、村上係長の取り組みは尋常ではなく、年中出歩いていて、ほとんど席にいなかったと記憶している。国のほうのご指導とともに、県としても一本になって進められた結果、苦難はあったけれども、なんとかスムーズに事業を進められたと思っている。
         埼玉県流域下水道計画        
 2)荒川右岸流域下水道よもやま話
 荒川右岸流域下水道は、県南西部に位置し交通の利便性に恵まれ、著しく都市化が進展した人口急増地域である。高度経済成長の真っただ中で右肩上がりも甚だしい時代に事業着手した。
 45年の10月に基本計画調査委員会を立ち上げて調査が始まったが、荒川左岸南部の下水道組合におられ埼玉の状況を熟知されているということで、遠山啓さんに委員長をお願いしたと思う。処理場の位置は、小畔川と入間川の合流点と、和光市の新河岸川右岸の2か所が検討されたが、排水区域から考え新河岸川右岸の現在の処理場1か所案が妥当としている。
 46年の12月に都市計画決定をし、処理場用地買収の説明会を46年の2月3日に1回目、6月3日に2回目を開いたが、農地を失うことと悪臭が心配であるとして地主の反対意見が表明された。和光市とも交渉していたが、地主の要望を包含する形で11項目にわたる要望書が、46年8月に市から出されている。
 要望項目の内容は、1番と2番が地主から出た要望を受ける形で、移転者には代替地、家屋移転の補償を充分にすること、用地買収はいい値段で買うことであった。当時の事務所の田中用地課長は、本当に昼夜、飛び回って用地交渉にあたり、46年から51年にかけて、35haを63億円で買収することができた。処理場予定地の中に民家が7件あったが、代替地などを用意し51年には移転をされた。
 問題は8番の費用負担の軽減であった。終末処理場は公共施設として免税になるため、固定資産税の減少に見合う額について費用負担の減額を図られたいとして県と市との間で数回の公文書でのやり取りがあった。民間企業を誘致すれば市に入る固定資産税の一部を関係市町が負担すること、下水道の処理場が「国有資産等所在市町村交付金及び納付金についての法律」の対象になるよう国に働きかけることで和光市の同意を得ることができた。

荒川右岸流域下水道 新河岸川水循環センター   
 それと荒川右岸の事務所には、国の方から施設課長として田野嘉男さん、現日本下水道協会理事長の曽小川久貴さん、それと現日本下水道光ファイバー技術協会専務の上ノ土俊さんに来ていただいた。田野さんは、50年から53年までおられ、先行取得の関係で右岸として年20億円の買戻しがある中で、早期の処理開始をしなければならない、上流の幹線も伸ばさなければならないとして、管理棟を4階から2階にせざるを得なくなったことを。曽小川さんは、予算がどんどんついて残業、残業の連続で、日曜出勤もしょっちゅうあったことを。それから上ノ土さんは、初期段階は流入量が少なく処理場のメンテナンスに苦労したことを思い出として書き残していただいている。ほんとうに3名の方には、各々3年間ご苦労をいただき感謝を申し上げたい。 
3)中川流域下水道よもやま話
 中川流域下水道は、県東部に位置し、急激な人口増加と用水型産業が集中している17市町を包含する地域である。当時の産業経済状況を勘案して、大規模な計画で事業着手した。
 処理場の位置は、常磐道と外環のジャンクション東側で第二大場川までの見渡す限り水田地帯の62haとした。
 47年に、国から補助採択を受け、47年の5月に越谷土木事務所内に事業所を設置して、48年の1月29日に下水道課が中心になって地元説明会を開催した。1週間後の2月6日には東京都が近接する三郷浄水場の用地買収の説明会を行っている。
 
 最初のジャンクション道路の用地買収は9haであるが、これは道路だからということで地主もあきらめて協力しようということになった。ついては、代替地を買おうということで、金融機関から借り入れたところへ今度は、浄水場で32haだ、下水処理場で62haだと説明を受け、市総ぐるみの反対運動になった。
 3月5日に中川流域下水道の都市計画決定に関する県の都市計画地方審議会が開催されたが、207名から反対の意見書が3通出ており、地元三郷市の都市計画審議会も反対という状況であった。県の松田課長から計画諸元の説明後に、都浄水場との関連もあり、地元折衝に時間を要したが、ようやく計画決定に持ち込める段階になったということで審議をお願いしている。
 

中川流域下水道 中川水循環センター     
 特別参加の三郷市長も意見陳述され、流域下水道事業に賛成の立場で住民等に説明したが、市の都計審も反対意見であり、少し時間をいただき関係者と協議したいので、継続審議を望むという発言をされている。
 審議会議長の大沢さんは、三郷市長が少し時間をもらい関係者を説得したいということもあり、継続審査の採決をとるということで、継続審査となった。
 継続審査になったものの、今年度分として1億円の事業内示がついており、あとが決まっているため3月28日という年度末に臨時の都市計画地方審議会を開催している。松田課長から、前回の審議会の後に、市当局とも6回交渉した。市長も住民を説得され、反対ゼロではないが、明るい方向に向かっている状況にあると説明がされた。今年度から越谷市と草加市が公共下水道事業に着手しており、処理施設の配置等を考慮し、極力面積縮小の努力をする方向で市の了解を得たので、再提案した。この機会を逃すと、流域下水道の次の採択が49年度まで認められない状況にあると説明している。
 審議委員3名からは、地域住民の意思をくみとることと、用地縮小の努力をすることを附帯決議として、原案をとおしては如何かというような意見が出て、用地を縮小するという条件付きで、採決を受けることができた。
 非常に難航した都市計画決定であったが、用地買収の方は都浄水場との単価調整もすることで、49年12月に約300名の地権者と一括調印をすることができた。買収面積52.3haで買収費206億円にもなり、用地特別会計で先行取得し10年計画で買戻しを行った。買戻し総額が308億円という大きな用地買収であった。
 

 参考資料 新聞切り抜きなど