私と荒川左岸流域下水道 ~水循環センター供用開始時の思い出等~
2018.5.24   中辻 勝(元埼玉県下水道課長) 
平成30年5月24日に荒川水循環センター大会議室で開催された下水道局特別研修における講話記録
 私は、昭和43年4月に設立して間もない荒川左岸流域下水道組合に採用され、非常に大規模な処理場の建設と維持管理等を経験し、平成15年3月に退職した。
埼玉県の流域下水道が始まったのが昭和41年度からであり、その2年前からの時代背景等も含め流域下水道の歴史を振り返りながら私の思い出等を記す。

(1) 荒川左岸南部流域下水道の処理開始まで(昭和39年~昭和47年)
 昭和39年は東京オリンピックの開催年で徐々に公害が進行しており、建設省から流域下水道の構想が発表され下水道整備五箇年計画も策定されている。昭和40年には日本下水道協会が設立し、埼玉県では荒川左岸流域下水道の基本計画が策定され、荒川左岸流域下水道協議会が結成された。昭和41年に入り荒川左岸流域下水道組合の設立認可があって県南8市で組合による下水道事業が始まり、その時の管理者が川口市の大野元美市長であった。
 昭和43年に流域下水道事業が都道府県事業となり、組合は県の委託を受けて事業を実施する形になった。昭和45年には公害国会が開かれ下水道関連の法整備が進み、ちょうどこの年に関東地方建設局長と埼玉県知事の間で覚書を締結し、荒川の河川敷に処理場を設置することが決まった。
 そこで終末処理場の地鎮祭が行われ工事も始まったが、昭和46年の23号台風で荒川の水位が上がり計画高水位を超えて建設中の処理施設が浸水し、工期が大分遅れるということがあった。
供用開始した頃の荒川水循環センター

  通水記念のレリーフ(荒川水循環センター)
 昭和47年には下水道事業センターが処理場の脇にでき、私はかなり管理面において接触があった。7月に県知事が変わり、就任直後の9月に処理場視察があり、通水式が10月3日に行われた。

(2)焼却灰の六価クロム問題(昭和48年)
昭和48年に入ると、鴨川中継ポンプ場の地鎮祭が行われ、汚泥焼却炉の火入れ式もあった。汚泥焼却炉ができて、いわゆる六価クロムの問題が発生した。その原因は下水中のクロムが最終的に汚泥に行き、汚泥をケーキにして燃やすと六価クロムが生成される。そのため汚泥を焼却すると溶出基準を超過するために処分ができなくなり、場内に仮置きすることもあった。
クロムは工場排水等が原因であり、それを規制するのが第一義的に必要だが、関連市の市長にお願いしても対応がなかなか難しいことから、酸化した六価クロムを還元するための還元炉を設置した。
 しかしながら汚泥の処理がなかなか十分にできない時もあり、完成した水処理施設に汚泥を貯留したが、それだけで済むような量ではなく、最終的な処分に非常に困り海洋投棄をせざるを得なかった時期もあった。 

焼却炉 100t/日 S51年稼働(2基目)
(3)処理場維持管理及び建設の県移管(昭和49年~50年)
 昭和49年に終末処理場の維持管理が組合から県に移管された。
 私の個人的な意見だが、維持管理を県管理に移したのは、問題ありと思っている。なぜかというと、先ほどの工場排水一つとってもこれは市町村の責任でやるべきものであり、県に移管されると県が市町村にやってくれとお願いすることになり、なかなか工場排水の問題は解決しない。組合管理の場合は、その当時の県南8市が組合を作ってやるわけで、自分自らに降りかかってくることになり、そういう面でいいのではないかと私は感じていた。
 昭和50年になり、建設も県に移管され、組合が完全に解散して全ての事業が県直轄になった。この年に鴨川中継ポンプ場と日進中継ポンプ場が運転を開始している。
 このポンプ場の供用開始後に問題になったことがある。上尾駅前にブドウ糖などを主に製造していた工場があり温度の高い水を出していた。供用開始に伴い、その工場の温水が流れ込み、他の水量が少ないため日進中継ポンプ場でポンプアップすると冬場の気温が低い時には下流のマンホールから蒸気が噴き出すかたちになった。その付近に飲食店があり、相当問題となったが流させないわけにもいかず、工場側に冷却装置もあったが解決に時間を要した。その工場は下水道使用料が高いという理由もあってか、数年後には他に移転した。処理開始当初はそういう問題が結構あった。

(4)埼玉県下水道公社の設立(昭和54年~57年)
 昭和54年に財団法人埼玉県下水道公社が設立され、処理開始していた荒川左岸南部の事業を受託することから公社の事業が始まった。そのあと昭和56年には荒川左岸北部と荒川右岸が処理開始され、57年には中川及び古利根川の受託事業ということで、公社の受託事業箇所が増え、その都度公社職員が必要になり相当数の職員をその頃採用した。一番多く採用した時には、試験の会場が処理場会議室だけでは足りず事業団の施設を借りて試験をし、その後の面接官の確保も大変で県にもお願いして対応した。
 下水道公社ができ、私も処理センターに勤務していたため、下水道公社にそのまま県職員の派遣となった。下水道公社設立当時に、全体の流域下水道が完成した時に管理職員が何人ぐらい必要かという試算がされており、大雑把な数字だが全体で千人は超えていた。この職員をどう確保するのかが下水道公社設立の大きな動機になった。
 埼玉県の下水道公社設立後に、同じ年に京都府が、次の年に栃木県と神奈川県に下水道公社ができたが私はこの選択にも問題ありと思っている。下水道公社を設立するのであれば、下水道公社の職員は維持管理の専門職になるべきである。県から公社に委託された業務のうち、清掃や簡単な見回り点検を再委託するのはいいが、相当な業務を公社から維持管理会社へ再委託している。これでは、一人前の専門技術者が育たないのではと懸念していた。

(5)焼却灰のレンガ化事業(平成元年~3年)
 平成元年に下水汚泥再資源化事業として汚泥のレンガ化が採択され、平成3年に工場が運転開始された。このレンガ化事業のきっかけは、下水道公社の自主研究から始まったもので、私もその当時公社にいて関与したが、下水道事業団が受託事業として行った。いろんなところにレンガを使用してもらったが、そのレンガが冬場に割れる現象が発生した。割れる原因は水を吸い込み凍って大きくなるからである。そこで、吸水性の低い灰を選別できればよいが、焼却灰が原料であり均一なものができずに、不良煉瓦が相当数製造され事業が中止になった。このレンガは原料が全て焼却灰で100パーセント有効利用するという画期的な事業であり、単価は高いにしても事業中止は非常に残念であった。

     鴨川幹線 口径2600mm 押込シールド
(6)下水道法の歴史
 最後に下水道法関係の歴史にも触れたい。下水道法は明治33年に制定されて、昭和33年に現行の下水道法が制定されている。
 明治時代の下水道法は土地の清潔を保つということで、汚水を処理するという発想はなかった。大正に入り、東京都の三河島汚水処分工場という処理場ができた。これは下水道法にもとづくものではなく市街地建築物の関係の法律を適用しており、この場合は内務省というのは認可団体ではなく、地方長官が指定する下水道であり、この時は警視総監が認可して実施した。この処理場は日本で最初の処理施設で、活性汚泥法ではなく散水ろ床法という、ろ床に下水を撒いてそれについた生物で処理する方法であった。その後昭和に入り下水道法が新しくなり、昭和45年の公害国会で相当大幅にいろんな条項が付け加えられて、今日の下水道法が整備されてきた。

 埼玉県の流域下水道年表
 1964年~1993年