横手処理区の事業化(秋田湾雄物川流域下水道) |
これは書きかけ途中のものです 2009/03 up2015/7/20 会員 亀田 泰武 |
1,はじめに 1981年(昭和56年)2月に、厳冬の雪国秋田県に赴任しました。当時秋田湾雄物川流域下水道では最初に事業化されていた臨海処理区が供用間近になり、次の事業展開が課題となっていました。流域下水道の構想は故沼田繁さん(後に公園下水道課長)がつくられたものでした。 当時大曲処理区は用地確保も見込みがつき、事業化に進みつつありました。しかし横手処理区は用地選定がはっきりせず、宙に浮いていました。この一番遅れている横手処理区の事業化について上から、横からプレッシャーがかかっていました。 2,用地の状況 横手処理区は横手盆地の市町村を計画の対象としていました。この構想段階で、当初横手市内に候補地がありましたが、地質がピート層であまり良くなかったため、横手盆地の西を流れている雄物川に隣接する大雄村の遊水池のようなところが候補地となっていました。 ここはもっと事業化が難しそうなところでした。当時各地で流域下水道反対運動が盛んになっていて、もめる一つの要素が区域内の比較的小さい市町村が用地を引き受けることとなった場合でした。一度大雄村の村長さんのところに話しにいきました。難しい顔はされなかったものの、やはり、県事業に対してはよそごとという感じで、またいわゆる迷惑施設立地の難しさはほとんど分からない感じでした。 そこでほかに適地がないのかということを詰めることにし、そこで最大の都市である横手市に市内でどうしてもないだろうかと聞くことにしました。当時の都市計画課長は松井正市さんで、温厚で誠実な方で、後に助役をされています。また市長は東大劇団ポポロ座事件に関わった千田謙蔵さんで、新しい仕事に前向きな方でした。 ある日横手市役所から連絡が入り、候補地があるので一度見に来てほしいというものでした。 この間、県庁の下水道の草分けである沼田課長補佐と地元とで、ある程度相談があったと思いますが、今では分かりません。 ある秋の日で、もう稲刈りは終わり、銀世界がすぐ近くに迫っていました。本庁、土木事務所、市役所のメンバーが現地を見終わり、一休みしてくださいと一軒の広い農家に案内されました。そこでお茶や漬け物など出していただいたのです。客間から水田地帯が見えるというのは都会育ちでは想像もできなかった体験で感激したことを憶えています。用地候補を調査するのに休憩までさせてもらうのはありがたいのですが、地元の情勢が分からないので不安でした。なんとそこは石山与虎市会議員のお屋敷だったのです。石山先生は,地元振興を熱心に考えた前向きの方でした。同じ地域の佐藤助吉議員とともに事業化に賛成し、多大の貢献を得ました。候補地に広い土地を持っている人が事業の関係でお金を必要としていることもあるということでした。残念ながら石山先生、佐藤先生は横手処理場の供用開始前に亡くなられました。石山先生が亡くなられたとき、沼田さんから連絡をいただき、中本下水道部長にお願いして弔電を打ちました。 横手処理区の事業化は非常に慎重に行いました。用地について地元がおおむね了解してもらうまでに絶対に表に出さないことが重要でした。多くの地域で、確定前に情報が表に出てしまい、聞いていないという人がでてきて、用地折衝が非常に難しくなる事態になっている例が多かったのです。まず予算化の際、計画が固まるまで幅の広い調査費としてし、計画策定費を組みませんでした。計画策定費とした場合、そのおおまかな内容を表に出さざるをえなくなり、また地元との協議に時間がかかった場合、急がされるというような悪い事態に陥ってしまう可能性が高いのです。時間に追われて地元の了解が十分でないままに進んでしまうというのが一番恐れるところでした。横手処理区では事業化の手続きを関係機関と慎重に進めましたが、それでも処理場進入路の用地交渉など大変なことがあり、そのときも石山先生が助けてくれたそうです。 用地は水はけは良さそうでしたが、軟弱地盤であったりすると大変なのでボーリングを1箇所してもらい、支持層がそれほど深くないと報告を受けて、これでいこうということになりました。 3,幹線計画策定 処理場の候補地が出てきたので事業化の計画作業に入れることなりました。事業化が円滑にいったので、建設費も管理費も経済負担の少ない工夫したものに是非したいと考えました。事業主体に勤務できて、新計画を作れる数少ない機会にめぐり会え、非常に幸運でした。汚水幹線は合流幹線に比べ計画の自由度がずっと高いため、様々な条件についてよく考える必要があります。設計水量は同じ集水面積で合流式より2桁小さいということは、幹線勾配は大きくなり、すぐ深くなってしまいます。水量あたりの建設費が高いこともあります。汚水幹線をできるだけ浅く計画することが非常に大切です。また埋設場所も重要で、交通量の多い幹線道路では浅くても開削工事ができず工事費が飛躍的に高くなります。計画の工夫によって飛躍的なコストダウンが図れます。汚水ポンプも有効な代替手法になります。 汚水幹線はこれまでの主流だった合流幹線と設計手法が全く違うことなど、いまだに下水道幹線の計画に関する教科書がないことは大きな損失と考えます。我が国の下水道排除方式は昭和40年代半ばに分流式を原則とするとなりましたが、管渠やポンプ場の設計が分流式下水道に合ったものになるのは長期間かかりました。 幹線計画を建てるには、地形を立体的に把握することが重要です。まず国土地理院の地形図を買ってきました。全くの平坦地というのはまれで、平に見えるところでも等高線の入った地図が重要です。自治体では大縮尺の地図を作っているのですが、肝心の等高線が不正確であったりします。地形を立体的に把握するため、作業に集中できる帰宅後に等高線を色分けしました。横手盆地は大水田地帯で、平坦なようですがけっこう地表勾配があることが分かりました。盆地東側の市街地は沿って走る汚水幹線に収容することになります。最小の土被りを狙いたいところですが農業用排水路が縦横に走っていますから、これは仕方がないにして、処理場近くで短区間圧送にすることにより、水処理施設まで送れる位置エネルギーを確保できる見込みがあることが分かりました。ただ初期の流入水が少ないときの管内滞留があるので、段階建設にして当初は細い管を入れておくべきことまでは考えがいたりませんでした。管をいじるのは大変なので、現在は処理場内に沈砂池とポンプ井を設け、ポンプアップしているそうです。 一方横手盆地西側の市街地は標高も低く、幹線沿い地形は平坦で水量も少ないので建設費を抑えるのは圧送管しかありませんでした。そこで、当時構想を持っていた多重圧送システムがどうかということで、日水コンに調査委託しました。一本の幹線に複数のポンプ場を接続するという、このシステムが可能なのかということもありました。後に欧州ではけっこうあることが分かりましたが。検討してくれたのは新しい試みに意欲的でこなしてしまう石井正敏さんで、いい結果を出してもらいました。 圧送方式は分流式下水道幹線設計の主要な選択肢になります。しかし分流式下水道が原則となって以来、圧送方式がある程度認められるようになったのは、2001年の設計指針からと30年もかかっています。 下水処理場候補地は盆地の中央を流れる大戸川近くでした。この川は灌漑用水の排水河川のような存在で、普段はあまり水量は多くないため、横手処理場の処理水は何キロも先の雄物川に排出することになっていました。しかし大戸川への水量もある程度補給し、放流幹線の建設を先延ばしする効果を狙って、大戸川への一部放流を計画したのです。大戸川に一部放流する検討にあたり、単独費で相当の調査費を認めてもらい、生物調査など行いました。この中で川を長距離にわたり上り下りするモクズ蟹の存在を知りました。雄物川は下流に高い堰がないので生きていられる貴重なカニです。この生物調査は地元で魚取りする人々に、県も環境のことを考えてくれるのだという認識をもってもらった価値がありました。 4,処理施設の方向付け 処理場の方は、作業が先行していた大曲処理区と同じ、OD型活性汚泥法とすることにしました。この二つの処理場は距離が近く、遠方監視ができるほうがよく、そのためにも双子のような施設が望ましいからです(実際の設計詳細は相当違ったようです)。大曲処理場の基本設計にもタッチでき、地域にあった最小のコストを狙いました。当時の標準型設計と地域事情を考慮した別の方式とするか悩みましたが、用地とお金を考え、後者にしようということで下水道事業団にお願いしました。エアレーションはコストが安い機械エアレーションを考えていましたが、当時ドイツから帰った佐藤和明さんの報告書で、機械エアレーションの小規模処理場が多かったので意を強くしました。沈殿池は設備寿命が長い円形クラリファイア形式で将来の更新費がかからないようにしました。 5,人のこと 横手処理区の事業化が円滑に進んだのは全て人によるものでまったく感謝しています。県庁では、事務補佐だった丸井雅徳さん、小野昭夫さんと非常に優秀な人を付けてくれ、事業促進が急務であった下水道事業、公園事業の本庁、現場事務所に、人事担当にかけあっていい人を回してもらいました。下水道では、その後土木事業を所管する建設交通部長に小田内富雄、越後谷康作さん、次長に今野義雄、堀江敏明さんが就任されています。大井道夫さんは工作の工夫の天才でした。 また発電事業など広く事業展開をしている企業局で育った技術屋さんを派遣してもらいました。電気職の工藤宏治さん、佐藤寛次さん、三浦さんなど。ある日、工藤さんほかの人に話がありますと言われ、下水道事業団に事業委託する大曲処理場の設計について要望されました。一つは、自家発電機をガスタービン型にすることで、当時出たてでしたが、小型で起動が素早いという特徴があり、その後標準機種になっています。もう一つは主力機器の駆動を三相200ボルトにすることでした。三相400ボルトが下水処理場で標準化しつつありましたが、どっちみち汎用動力として三相200ボルトの設備がいるのでシステムが簡単な方にして欲しいというものでした。これは下水道事業団にお願いし、その通りにしてもらいました。 佐藤さんは誰も分からなかったある下水処理場の運転特性を見事に解析してくれました。県庁の出先機関である平鹿土木事務所もありがたい存在でした。土木事務所は道路事業、河川事業の実施が主体で、流域下水道の事業化の際は担当もいないのに、バックアップしてくれました。県で地元に一番顔が利くのは土木事務所ですのでその力は非常に大きかったのです。 6,汚水中継ポンプ場の設計思想 分流式の流域下水道では汚水中継ポンプが多く必要になります。当時下水ポンプ場は合流式の大雨で何が入ってくるか分からないためスクリーン、沈砂池など重装備が標準でした。臨海処理区で中継ポンプの実施設計に入っていて、分流式では流れたものをできるだけ送ってしまう設計で、施設を簡素化し、面積を大幅に減らしてもらいました。他のポンプ場もこの簡易型で行くことにしました。 分流式に合ったポンプ設計が下水道設計指針に取り入れられたのは非常に遅れました。 下水道排除方式について分流式を基本とすることになったのは1970年頃で、1972年の設計指針に入れられました。しかし、計画設計標準が分流式に合うようになるまでに長期間を要しました。 合流式のポンプ場は雨天時に大量の雨水、土砂やゴミが流れてくるなかで雨水ポンプを確実に運転しなければならないため沈砂池やしっかりとしたスクリーンが必要である一方、汚水中継ポンプ場は土砂流入などがあまりないため、下水を通過させる機能があればいいことがあり、基本的に設計条件が異なるものですが設計指針では長らく合流式下水道タイプの大規模ポンプ場が標準となってきました。1984年の指針ではじめて小規模の汚水用マンホールポンプ場が設計指針に入りました。施工速度が大幅に向上した組み立てマンホールのなかに水中汚水ポンプを設置するという簡便なものでした。 1994年改訂時になってやっと汚水中継ポンプ場が3形式あることが示されました。第一は沈砂池を設け除砂設備を用いる形式、第二は砂だまりを設け簡易なスクリーンあるいは破砕機を用いる形式(簡易型ポンプ場)、第三は特に除砂を行わない形式(マンホール形式ポンプ場)。簡易型の設計が標準化されたのは1998年頃の下水道事業団のコンパクト型汚水中継ポンプ場標準設計からになります。 7,その他 時期が丁度良かったとはいえ、現場をあまり知らないうえに、言葉足らずであまり説明もしない若造の提案する新方式をみな反対しないでくれたことを感謝しています。処理施設、圧送方式など新技術ではありませんでしたが、あまり採用されていないものでした。昔から、外部に説明するより、担当業務に打ち込んでしまう悪い癖は今なら通用しないでしょう。 あとになって知りましたが、当時知事の所に時々出入りしていたコンサルタントか評論家か、なにかよく分からない人がいて、知事に東京からきた課長がとんでもないことを勝手にしていると説きつけていたようです。これについては何も言われませんでしたが、別の話があります。流域下水道事業のコストダウンに努めた結果、予定事業の達成のため、事業費の拡大が必要なくなりむしろ減るくらいでした。これについては面と向かって言われませんでしたが、事業費が増えないことに非常に不満だったようです。当時でも県庁の財政課長から公共事業の費用負担が大変だと聞いていましたので、コストダウンに頑張りましたが、事業の状況を的確に報告していればよかったのでしょうか。 いま振り返ると計画し、稼働するまでは息つく暇のない状態でしたが、つくられた施設は何十年と管理していかなければいけません。その間にいろいろなことが起こるでしょう。ずっといい状態で機能保持できるように的確な管理がなされるよう期待しています。 付録 子供の頃の大戸川の思い出 子供の頃大戸川で遊ばれた方に書いていただきました。 ●東京オリンピックの頃(昭和三十年代末頃) 皆方 護 私が小学生だった昭和30年代後半(東京オリンピックが開催された頃)は、まだすべての学校にプールがなく、夏休みになると、近くの雄物川支流の大戸川で水遊びや遊泳をしていました。休みに入る前に学校の先生方や父兄が、遊泳できる場所を選定し(水質や水深、水量、流れの速さなどを確認したものと思われます)、目印となる旗を立てていました。私の自宅は横手処理場が建設された大戸川の近くにあり、夏休みに入ると、毎日のように宿題もそこそこに近所の友達と誘い合いながら近くの遊泳場所へ行ったものでした。また、川で水遊びや遊泳する子供たちの安全を守るために、近所の父兄が交代で監視員をしており、そのため遊泳時間が設定され、天候や川の状態によっては入れるかどうかも指導していたように記憶しています。 現在と違って、公園や運動施設が充実していない時代でしたので、川は魚釣りや水遊び場として絶好の場所でした。学校から帰ると、釣竿を持って、餌にするミミズ掘り出し、フナやコイ、ナマズなどを釣りに行きました。泳ぎや魚の釣り方などはすべて年上の子供たちから教わり、またそれを年下の伝えるように受けつながれてきていました。おもちゃやゲーム機などはありませんでしたが、年上や年下まで一緒になり、自然を相手に自分たちで遊び方を工夫し、毎日夕方遅くまで外で遊んでいた頃が懐かしく思い出します。 ●昭和五十年代の頃 菅原 吉隆 私の生まれ育った場所は、秋田県南部の現横手市です。横手市は盆地地形なので夏の暑さは厳しく、冬は非常に雪の多い地域です。家は大戸川に近く、小学生の時(S53~56頃)祖父に連れられ、弟と野鯉釣りに行ったものでした。釣り上げた鯉は、40㎝前後でしたが、あらいや甘煮にして食します。とりわけ、この鯉の甘煮は秋田県南地方の祝膳で、正月やお祭り時は、食卓に並び、父母、祖父母は大喜びでした。 ところが、幼少だった私と弟は、この魚の旨さはまったく理解できませんでした。 (骨の多い少々泥臭い魚・・・・) でも今なら、秋田の地酒の肴として堪能できるかも |