集合と分散、つきぬ論争に整理を
 

(集合)下水道システムか戸別合併浄化槽かの議論に対しては、都市密度、汚水発生密度の違いにより、どちらかが良いということになるので、どちらかが無条件に一方的によい (わるい)という結論にはならない。

都市の供給処理施設で下水道以外では、水道、電力(いずれも供給施設)などがあるが、同様の議論がありうる。

水道は水源〜浄水場が下水の処理施設にあたり、送配水管は下水(集水)管渠にあたるから、単独水道(井戸水源)との比較では、都市の密度、水源(排水先)への距離などによる類似の 手法になる。

電力は、発電施設の立地条件が限られることから、それらを大規模にし効率化し、遠距離であっても高圧送電すればロスが少ないので、過度の集中システムとなってきた。 しかし、最近は発電の技術革新が進んで、オンサイトの燃料電池、(発電効率を高める)コ・ジェネレーション(熱電併給)システムが実用化されつつあ るので、今後は分散化に向かうのではないだろうか?

議論対象のDESAR(分散システムの奨め)は、この電力の例と同様、し尿処理技術の革新の行方にかかっているのではないかと思う。 その技術が物理的、費用的ほかの条件を満足するのなら(なにもエコロジストでなくても)素晴らしい方法だと言わざるを得ない。

ただし、七割もの整備が済んだ我が国の下水道システムを作り替えるのは出来ない相談だ。残りの三割に対しては、密度が低い地域であるし、いろいろ考え る余地があるので、この方法を採用することもあり得るのではないか 。とくに、100%整備への最後の関門、山小屋のトイレとして是非とも考える必要がある。東南アジア等の発展途上国の都市以外でも同様だ。

そこでひとつ、頭の体操として、明治の下水道整備の曙時期にこの考えがあったら、と考えてみるのも面白い。歴史上の「if」だ。

我が国の下水道整備が西欧に比べ遅れた理由の主たるものとして、し尿の農業利用があった。江戸時代末までは、化学肥料などがなかったので、都市からのし尿は最大かつ唯一に近い農業肥料資源だった。廃棄物どころか、金銭取引がなされた「商品」とも言えた。江戸時代はいまで言う超「循環型社会」だったのである。
明治維新とともに、化学肥料の登場と入れ替わり、し尿処理の対象となった。その後、下水の仲間に加わり、下水管で輸送され、従来の下水と混合処理されるようになった。そのおかげで水洗トイレも可能となった。
そのときに、し尿を下水にしないで、有効利用するためのオンサイト処理する技術的方法があれば、ずいぶんと違ったその後の展開があったと思うのである。

ただし、「if」のし尿処理・有効利用システムとして、現行の水洗トイレ+下水道システムと比較する場合は、水洗トイレの快適性も勘案しなければ片手落ちとなる。また、その技術を担保する電気等の他の資源が必要な場合は、それらも評価の対象に加えないと、「リサイクルしてはいけない」(リサイクルのために余分のエネルギーなど必要になり、かえって無駄となってしまうことがある警鐘)の再来となってしまう。

そのような前提で、科学的議論が始まれば良いと思うのである。
それを、単なるエコロジスト的精神論で主張されるのであれば、真っ平御免にしたい。

件の書物は未読ですが、とりあえず議論の前提、整理の方法を掲げてみました。

望月倫也