分別してはいけない(一本でオールマイティ・合流管、達成できない目標、
上水道は「水商売」だ、下水道は公共事業だ、悪に倫理は期待できない)

 

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望月倫也
 

分別してはいけない


「リサイクルしてはいけない」(芝浦工大武田教授)という書があった。挑発的書名だが、リサイクルにはそのための使用エネルギーからいって合理的でない場合もある、という内容だ。私はその意味でリサイクルできるものの分別まで否定はしない。ところが、ゴミの世界では、リサイクルルートがある容器以外の雑多のプラスティック類まで分別させ、結局はリサイクルできず、不燃ゴミとして希少な埋め立て地の容量を食うか、可燃ゴミとともに焼却しているのである。

下水で分別と通常は言わないが、最近はし尿を再分離するとか、さらに尿を「し」から分離するとかの「分別前提の」技術論で争鳴状態だ。発生源で分別できれば、その後の処理も容易で、汚泥の緑農地等へのリサイクルにも最適だ、との主張らしい。

台所の生ゴミを「直投型」ディスポーザーで粉砕し、下水にするのは、この分別とは全く逆の「混合」になるが、最近、国交省で採用のための「判断基準」(影響判定の考え方)が出され、推進の気配だ。

前記技術論では、混合すると処理がしづらくなると言うが、いずれも有機性汚濁に違いないし、処理・再利用できるように努力するのが処理技術者の仕事だ。そのような考えで、し尿を過去に下水にした。そして、生ゴミも下水に入れることになれば、生活の利便性がますます高まる。そのような社会の要請により、技術というものは発展するのだ。

ただし、無機性汚濁中心の工場排水等は分別(工場内処理)すべきなのは言うまでもない。

ゴミで言えば、ダイオキシンフリーの高温焼却の技術ができ、雑多のプラスティック類は可燃ゴミとなった。分別しなくてもよくなったのである。燃やすだけと言っても、現技術で最適なサーマルリサイクル(熱利用)にはなる。

2005年10月25日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録


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一本でオールマイティ・合流管


下水管は一種のパイプラインだ。敷設に手間と金がかかるが、いったん供用すれば、高度に利用するのが当たり前だ。石油パイプラインでも原油から各油種までを一本で運ぶように、一本の下水管でも水で運べるものは何でも受け入れたらよい。出口で水と分離すればよいからだ。

し尿は明治以降処理対象となったが、家庭内環境向上のための水洗トイレから下水に混ぜて運ぶようになり、バキュームカーなどの臭害も生じなくなった。家庭排水と混合すれば、栄養分となり、処理のメリットにもなった。

生ゴミもディスポーザーで粉砕し、下水を利用して運べば、台所、ゴミ収集車での悪臭がなくなる。下水処理場での処理に難があると言われたが、国交省の「影響判定の考え方」では、そのほとんどが容易に沈殿処理できるとある。汚泥が増えてやっかいと思ったら、緑農地利用の場合は、利用可能量が増える以外に、増量材として肥料性状向上に資する場合もあり得る。

合流管は一本で、以上に加えて雨水をも運ぶと考えると、超高度利用のパイプラインだ。合流改善事業で、滞水池などの追加が余儀なくされているが、大都市では最初から、改善(付加)施設付きの合流管を計画的に採用する考えはないのだろうか。それでも、雨水、汚水管の二セット配置するより合理的だと考える。おまけに、初期雨水処理(ノンポイントソース汚濁)も最終処理場で可能となる。

なお、パイプライン不要の下水道、すなわち、人口希薄地などの戸別浄化槽には、前回小欄も含め、以上の議論は適用されない。最近流行のDESAR(Decentralised Sanitation and Reuse)の出番だ。

一方、多摩ニュータウンなどでのゴミの風圧輸送管は失敗に終わった。ゴミはリサイクル前提の分別が必要なことと、下水管のような既存管の利用でなく、専用のそれも幹線だけの管を単一目的で設置するという無駄があったからだ。

2005年12月13日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録


3

達成できない目標



下水道など強力な施策により、公共水域の水質は河川では飛躍的に改善された。そうでないのは湖沼などの閉鎖性水域だ。CODあるいはリン窒素の指標でいうと、改善の傾向にはなく、横ばいがよいところだ。

たとえば比較的きれいにみえる琵琶湖北湖だが、浄化の目標ではここ20年以上、全窒素、CODともに基準を超え、しかも改善の傾向にない。全リンは最初から達成しているが横ばいだ。同湖では南湖のリンが唯一改善されているが、達成にはまだまだだ。この間、滋賀県の下水道普及率は、汚水処理では九割を超え、リン窒素削減の高度処理では全国トップの75%になるなど、下水道の努力は甚大だった。

推論だが、もし目標を達成しようとするなら面源負荷対策が必要であって、下水道は湖沼水質基準達成に関する限り主要施策ではないのではないか。

さらには基準にしたリン窒素の濃度(アウトプット)とプランクトン増殖等の富栄養化現象(アウトカム)に因果関係はあったのだろうか?真の目標はアウトカムのほうだ。異常増殖する藍藻類でも、ミクロキスティス(あおこ)を退治するためリン窒素を削減したら、比較的きれいな湖でのフォルミディウムなどが優占種となった。生物のことは単に一原因物質だけでなく、生物間の盛衰現象を研究すべきだ。

水質環境基準のことをさらに言えば、その類型根拠として、水道級別などの利用目的があげられている。しかし、水道は取水後処理することができる。だから、公共水域水質をこれだけにあわせなくてもよい。むしろ、透明度とかのごく共通的な水質指標を用いるべきではないか。浮遊ゴミのないことも見た目の清澄さには一番関係する。そのためには都市のノンポイント汚濁を処理していくべきと考えるのである(承前)。

2006年1月31日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録


4

上水道は「水商売」だ


 
上水道は水を売る「水商売」であるべきでないだろうか。

小泉改革で「民でできることは・・・」のかけ声のもと、上水道の経営もPFIあるいは指定管理者制度など民間的手法で効率化する動きになりつつある。

しかし、上水道は企業会計で運営されていたはずだ。公営企業すべてにあてはまるが、実は「企業」の名前だけの運営に終始していたのだろう。

理由を一つあげると、薄利多売をやってこなかった。使用量に逓増する料金体系にして、商売とは逆のことをしていた。豊富に使ってもらうのが「水商売」の繁栄になり、ひいては水消費者の利益につながるというのに。

限りある水資源を無駄にすべきでないというが、すべきでないのは供給不足の渇水時の話しだ。渇水時に許容量を超える場合、料金をそれこそ罰金的に課せばよい。需給関係で料金を決められることが民営化のエッセンスだ。料金の高さで人はものを節約すべきかを理解する。節水の呼びかけだけでは動かない。これは市場主義のイロハなのだが、公営企業関係者には理解されていない。

ボトルウォーター普及の現状に危惧する理由として、全国民が使う水道は生活必需品で飲用に供しているので、低廉であるべきだとし、だから水道料金は(渇水時でも)そんなに高くできないとされている。しかし、貧困者に対しては生活保護などでの給付を充分にすべきで、物価政策に福祉の考えを入れてはいけないと思うのだ。

一方、下水道は生活改善・水質浄化の公共事業だと思っている。しかし、下水道も効率性は持たなければならないのに、未だに水量逓増料金制をとっているのは理解できない。

以上は、上下水道の供給・処理能力に余裕ができ、今後もその状態が続くと予想される現状の認識での議論である。

2006年3月14日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録


5

下水道は公共事業だ


下水道は公営企業の事業というより、むしろ純然たる公共事業すなわち都市排水浄化事業であるべきだ。都市活動による路面などの汚れは自然の降雨が清めて廃汚水となる。それら不特定の汚濁を含む初期雨水は下水道で排除するだけでなく、汚水として浄化処理まですべきだ。

都市の生活排水についても同様だ。下水道財政論で、公費私費の区分をはっきりさせ、私費分にあたる下水道料金を徴収せよという。汚水処理は個人の生活汚濁の始末だから原則私費負担だという。しかし、同様の一般廃棄物処理は税金で賄われている。特定の事業活動からの排水・廃棄物はPPP(汚染者負担原則)により、その処理費用は製品価格に転嫁させる必要があるが、個人からのものもそれの類推で考えたきらいがある。排出者が特定されても、全員が出すものだから税金からで構わない。都市内での浄化処理・河川への放流は個人では出来ないから、公共事業になる。

その公共事業でも料金を一部とってもよい。排水量減量(ゴミのリデュースも)を環境政策的に狙う料金チャージと、水洗化のための浄化槽の費用相当受益分の考えだが、まちがってもこれら料金で全体費用を回収すべきとしないことだ。最近の総務省通知では、公費分にあたる下水道繰出金の考えが一部修正されているが、この「受益分徴収」の考えには至っていない。

高速道路も同様で、地方の不採算路線を通行料だけで賄おうとし、不可能なので道路そのものが無駄だという結論になりがちとなっている。しかし道路は利用者便益だけでなく社会便益もあるから公共事業で建設し、通行料は利用者の受益の範囲内で徴収し建設費の一部にあてる、という公共事業の「受益分徴収」の考えにどうしてならないのだろうか?

2006年4月25日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録


6

悪に倫理は期待できない


昨年からの建築強度偽装事件に関し、原因を世の中の倫理の欠如に結びつける議論が多いのには疑問を感じている。典型的な詐欺事件なので、確実に逮捕・処罰することで解決される。世の大部分の人は処罰の危険を冒してまで他人をだましたりはしないし、そもそも商売を続けるには信用第一なのは自明だ。

この事件の姉歯元建築士ほかの被疑者は、ごく一部の悪意を持った人々で、彼らに倫理を求める方が無理だ。

昔、下水道計画に携わっていたとき、下水道反対論者の根拠として、下水道は工場排水を受け入れるから反対だとするものがあった。たしかに下水道未整備地区で、毒性排水を夜陰に乗じて公共水域に違法放流する工場が一部あった。そこに下水道整備をし、下水道でも法的に受入不可のそれら無機排水を下水管の中に入れられたらと、管内は常時見えないこともあり、下水道への受入は犯罪助長のシステムだと言うのだ。

でも、実態を見ると、大部分の工場は法律を破ってまで下水道に毒性排水を未処理で排水などしない。ほんの一部の工場が犯罪を犯すのに対処するには、排水の痕跡を調査するなど、犯罪捜査の手法が適当だ。一部の悪人を見て、全体が悪いと危惧し、それを下水道計画論にまで発展議論する誤りだった。

今回の事件で話題になった建築確認などの検査はごく一部にある悪を暴き出すところにその使命がある。悪人がいるかもしれない、との心構えで検査することが肝要だ。検査対象母集団の倫理の傾向とは関係ない。むしろそれらの倫理に期待した間違いが今回の教訓ではないだろうか。

2006年6月13日 日本下水道新聞「エアレーション」掲載のものをhtmlで載録