下水道人にぜひ読んでほしい「感染地図」
 

  安藤 茂 

今年のNHKの日曜大河ドラマは「篤姫」。篤姫は幕末から明治維新へのスムースな移行を裏から支えた女丈夫としても知られる。いま番組では、主人公が鹿児島から京都を経て江戸に到着、輿入れあたりの時期、嘉永6年〜安政2年のころの話が進んでいる。安政2年は1854年で、ペリーが再来日し、横浜で日米和親条約を結んだ年でもある。

この年の9月英国の首都ロンドンでは大騒動が持ち上がっていた。当時、貧民窟ともいえるロンドン中心部ソーホー地区で疫病が大発生、瞬く間に一帯に蔓延、数千人の人たちがごく短い時間に亡くなったのである。

ここに紹介するステイブ・ジョンソンというアメリカのジャーナリストが書いた「感染地図」という本は、この疫病騒動を物語風に書き上げたノンフィクションである。巻頭に「はじめに」と題された一文が載っていて、それがこの本の概容を簡潔に表現しているので、まずはそれを掲げておく。 

「この物語には、致死的な細菌と、超成長する都市、そして天賦の才をもった二人の男という四つの主役が登場する。百五十年前のある一週間、底知れぬ恐怖と苦痛に見舞われたロンドン、ソーホーにあるブロード・ストリートで、この四つの主役たちは交差した。

この本はその交差のようすを、さまざまなスケールで眺めようと試みたものだ。顕微鏡でしか見えない微生物の王国から、悲劇と勇気と友情にあふれる人間界から、考え方やイデオロギーという文化の領域から、そして無秩序に広がる大都会ロンドンそのものの視点から。この本は、そうしたさまざまなベクトルの交差点が無数に存在する地図の話、知覚で把握できないことを道理で説明するために作られた地図の話である。(以下略)」

本書は「地図」がキーワードになっているが、私はむしろ、この文のあとに続く「また、時代を支配している誤った考え方が新しい考え方に入れ替わる転換期に、どのような波瀾が起きるのかを知るための事例研究でもある。だが何よりもこの本は、私たちが享受している現代生活の方向性を定めた決定的な瞬間のひとつとなった、激動の一週間を検証するためのものである」というところに強い興味を抱いた。

さて物語の舞台はロンドンの中心街、テムズ川左岸、ピカデリーサーカスの北西5〜600mのところを中心としたソーホー地区の一角である。当時このあたりは、高級住宅地に囲まれた貧民屈であった。その地区にブロードSt.という街路があり、その通りの40番地には美味しい水を供給する著名な井戸があった。手押しポンプでくみ上げられる井戸水は透明で冷たく、かすかに炭酸を含んでいた。地区の人に愛用されるほか、地区外からわざわざ汲みにきたり、地区の人が遠方の知人に送ったりしていた。

患者の症状から、疫病がコレラであることはすぐ分かった。しかし、細菌の存在を知らない、当時のこと、疫病が何で流行るのかトンと分からなかった。当時ロンドン市の公衆衛生局長を務め、下水道委員長など市の衛生行政の幹部だったチャドウイックは悪い空気、悪臭が原因であること(瘴気説)を主張し、その観点で行政を進めた。悪臭を断たなければ疫病は終焉しないとの立場であった。悪臭のモト糞尿を町中から排除するべきだと。

疫病が発生したとき、ソーホー地区には疫病発生に関心を抱いた2人の男が住んでいた。一人は医者でもう一人は地区内の教会に住んで布教に励む副牧師だった。医者の名前はジョン・スノー、副牧師はヘンリー・ホワイトヘッドといった。スノーは苦学して最高位の医師資格を獲得、麻酔の権威となりビクトリア女王の無痛分娩に関与するほどの医者になった。ホワイトヘッドは裕福な家庭で育ち、ケンブリッジ大を卒業して聖職につき、この地区に派遣されていた。

スノーはかねてからコレラが経口感染で拡大するのでないかと見当をつけていて、それを実証したかった。ホワイトヘッドは聖職者としてなぜ敬虔な信者が病に倒れるのか吟味したかったのである。

二人は立場こそ違え、現地を自分の足で歩き、患者の家を訪ねて本人や家族から罹病に至るまでの行動や、住環境、個人情報を尋ねまわった。ソーホー地区で最初の犠牲者が出て1週間、この地区及び遠隔地でも数百人の人が亡くなった。二人はそれらを綿密に記録し統計を取っていった。スノーは更にそれを地図上に落とし、感染源をブロードSt.40番地にある件の井戸である可能性を突き止めた。そして教区委員会にはたらきかけ、井戸水を飲めないようにポンプの柄を外させた。これを機にコレラは終焉に向かうこととなった。

しかし感染物質が何かを特定できず、相変わらず瘴気説が跋扈し、スノーの説が認められるまでには、その後も長い時間が必要であった。ホワイトヘッドもはじめはスノー説に批判的であった。しかしスノー説を固める証拠を見出すことになったのは皮肉にもホワイトヘッドであった。事件一段落後、彼が信者の一人が失くした乳飲み子がすべての原因であることを突き止めたのだ。赤ん坊がコレラに罹り、その子のオムツを洗った水がばら撒かれて井戸に達したことが分かり、井戸近辺の発掘調査でもそれが明らかにされた。

「感染地図」の物語はこの1週間の出来事を、資料を使って丹念に追跡したものである。

時系列的に順を追っているとはいえ、挿入説明文が多いので読者は時々混乱させられる。

しかし、その挿入説明文は我々にとって、実に貴重で、有益な情報を与えてくれる。

まずは「下水」「下水道」というキーワードが至るところに散りばめられていることである。「下水道」があるときは救世主として、あるときは悪元凶として描かれる。ロンドンの下水道がどのような経緯をたどって整備されていったかも分かる。「コレラ菌とコレラという病気」のことは勿論、医学と統計を結びつける「疫学と疫学調査」のこと、更には「公衆衛生学とは」「安全な水とは」「公共事業としての下水道の意味は」などそれぞれ、原点に戻って考え直させられる中身が満載である。

著者は更に、終章「エピローグ」で人口の集中する都市を取り上げ、「都市のメリット」を謳い、核兵器の拡散、バイオテロ、新興細菌、鳥インフラエンザH5N1型、などにも言及、独自の文明論を展開している。中には「目からウロコ」の部分も多く、筆者には大変参考になった。

この本は、下水道を原点に戻って考え直してみる縁として格好の教材だと思う。下水道関係者はもとより、上水道や水環境問題に取り組まれている方たちにもぜひ一度読んでみてほしい本である。 

ステイヴン・ジョンソン著、矢野真千子訳「感染地図―歴史を変えた未知の病原体」:河出書房新社、2007年12月30日発行、2,600円(税別)

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