「長野県に於いては出来得る限り、コンクリートのダムを造るべきではない」との「脱ダム宣言」が長野県田中知事から一昨年出されたときは、正直びっくりした。その後、長野県では、具体に懸案となっている県営の諸ダム計画で、治利水上の機能を点検し、見直すかどうかについて、「長野県治水・利水ダム等検討委員会」を設置し、昨年にかけ二年越しの議論を行ってきた。
昨年、それらのうちの二つのダム(浅川、下諏訪)について先行して答申があった。
そのうち、浅川ダムが計画されている浅川は長野市北方の千曲川の支川で、千曲川が洪水の時は影響を受けるなど、洪水が頻発する川だ。現行治水計画の対象とする洪水規模(基本高水流量)は450トン/秒だが、そのうちダムで100トンを受け持ち、河道では残りの350トンを流せるように、ダム及び河川の整備を進める考えだ。しかし、委員会では、その対案として、450トンは大きすぎる、330トンで十分とし、その場合河川の整備だけで済むから、ダムはいらないとの案を「多数決」で決め、現行計画案も併記の上だが、答申した。下諏訪ダムの砥川(諏訪湖へ流入)も類似の構図だ。
ここで問題なのは、計画対象の洪水規模を見積もるもととなる降雨確率の難しい計算方式を考え直すと、330トンで十分という結論を出したようですが、いままで450トンとしていたものを330トンに下げるのですから、確率現象たる洪水に対する安全性が現計画より劣ることになるのは当然で、単に治水上の計算方式を合理化したらそうなったとの技術論で済む話ではありません。
田中知事はそこのところをわかっているのか、切り捨てたかに見えた100(120)トンの流量(全体の約2割)についても、
『残る約2割の流量への対応として理論上では、ダム建設という選択肢も考えられなくはございません。しかしながら、検討委員会の論議や昨今の国内外の治水を取り巻く方向性も鑑みますと、「環境への負荷」という看過し得ぬ観点や地質面からのダムの安全性に対する不安感などを考慮する必要性があり、検討委員会の答申も尊重するなら、安易にダムを選択することはできません。このため残る約2割の流量への対応は、長野県治水・利水ダム等検討委員会の答申でも示されましたとおり、森林の整備、遊水池や貯留施設の設置等の「流域対策」で対応する方針といたします』
として、ダム不要の結論を急いだ後の検討課題としている。
私は山登りが趣味です。山に携行する荷物で、一番重要でかつ慎重にその量を考えなければならないのは、「水」です。重いですので、背に持てる範囲内で、「必要最小限」にしなければならない。
最低一日2リッターがその量です。
都会の家に帰れば、200リッターは使いますから、山で生活することを考えれば、百分の一の量で人間は生きることは可能です。つまり、山の上では、最大限の節水を強いられるのです(好きでやっているのですが)。
言い換えれば、毎日自分に強いて、198リッターの「無駄」な水をやめて、文化的な都市生活を放棄すれば、ダムなどの水資源施設は一切いらなくなる。これは道理です。砂漠の民は嫌でもそうせざるを得ない。
でも(水を文字通り「湯水の如く」使うなど日本の贅沢な生活に浸りきった人から出た)「脱ダムを節水で可能にしたい」という意見は、自分の文化的な生活を犠牲にするどこまでの覚悟で出てきているのか、はなはだ疑問です。
ダムの治水機能の面でも同様の構図があります。
脱ダムを進める代わりに「流域貯留」を考えると言うことは、ダムなどの治水事業で可能になった洪水常襲地の土地利用を、元の使えない土地に戻せと言っているに過ぎません。
以前、「高床式の住居に日本人は住んだらよい」という意見・治水(をしない)方法を聞いたことがあります。これは、当然あり得る立派な治水論だと思います。ただし、そのような原始・不便な生活をする覚悟があれば、という前提付きです。現に、東南アジア・モンスーン地域の低地では、貧しい国情からして、その方法だけしかないのです。
日本では幸福なことに、治水選択肢が多様です。
脱ダム宣言は全ての陣営で金科玉条になっています。多様な手段で、自然のことも考えて、という、事業の進め方は結構なのですが、その議論のさい付随する、上述した「覚悟」ひょっとしたら因果関係の「理解」までがなされていないのではと、危惧されます。
長野県知事の「脱ダム宣言」の趣旨は、ダムにとらわれない治水、ということで、国土交通省の「多様な手段による治水」方針をいち早く取り入れた格好になってはいます。ある河川において、ダムを作るのはなるべくやめよう、ここまではよいのですが、当然不可欠な代替手段として、自然の山林の治水効果とか、平野部の貯留効果を持ち出します。これに治水手段としての資格である定量的具体性がないのは、誰もが指摘することでした。
私が更に考えていただきたいのは、自然の治水効果に期待し、それに「加えて」ダムにより更に安全な地域に出来ることに、なぜ気がまわらないのか、ということです。(きっと、ダムが嫌いなのでしょう。ダムを好きで作っている人がいると誤解して)
洪水は自然の確率現象です。どんなに防御しようとも、ごく少ない確率でそれを上回る洪水は必ず襲います。ただし、治水の努力を重ねれば、洪水被害は、より少なくすることは出来る。
生命保険と似ています。一家のあるじが不老不死なわけはありません。もしもの時のための十分な保障額を得るために、日ごろ掛け金を払い続けるのです。掛け金が少なければ保障額も少なくなる。治水の努力が少なければ、被害は大きくなる。治水の努力をあるところでやめれば、少なからぬ被害を我慢しなければならない。更に努力すれば、我慢も少なくてよくなる。
国が貧しければ、治水もそうはできないから、被害の影響がないような原始的な生活に甘んじなければならない。
だから「ダムを作れば更に安全になる」という選択をとらないのは、長野県が貧しいからなのかと、疑われるのが通常なのです。
今回の浅川、下諏訪の両ダムの具体的なデータは私は持っていません。おのおののダム地点が地形地質上問題がなく、費用効果分析で治水手段として適しているなら(もちろん自然環境への悪影響もマイナスの効果としてカウントして)、いずれ、長野県民の必要性が再び生じれば、その時にはダムを作れば、より安全な地域作りが出来る。そういう時代は必ず来ます。
以上のように考えて、治水は国家「百年」の大計という言葉が、今回の騒動を自分なりに理解するのにピッタリだと考えました。