飛鳥寺西門跡 日本最古級の土管上下水道管 飛鳥の流水施設-3    理事  中西正弘
                         |top1-22-2|3|5-2 
奈良県明日香村の飛鳥寺西門跡から出土
 時々、歴史を尋ねて古都を訪れる。奈良県明日香村の飛鳥寺に行ったときである。この寺は飛鳥時代、権勢を振るった豪族の蘇我馬子が建てた日本最古の本格的寺院(現在の建物は江戸時代に再建)、寺の中の飛鳥大仏も日本最古の金銅仏として有名である。
 飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚の間の小さな広場にある遺跡案内板を見たとき、西暦596年に創建された飛鳥寺の跡を発掘調査したときの写真が載っていて「寺の西門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた」と説明があった。写真には塀の外側に土管が十数メートル一直線に並んで発掘されたときの様子が映っていた。今は埋め戻されて広場になっている。(写真-1)
 また、その案内板には「飛鳥寺の西には槻(つき、ケヤキの古名)の木の広場があった。中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)はここの蹴鞠の場で出会い、蘇我入鹿を暗殺し、645年に大化の改新をなし遂げた。この時二人は飛鳥寺に陣を構え、西門から甘橿丘の蘇我蝦夷・入鹿父子の館をにらんでいた。672年壬申の乱の時には広場を兵隊が埋め尽くした。その後は外国使節や遠方の使者を歓迎する宴会の場となり、噴水が置かれ、歌や踊りが満ち溢れるようになった。西門はそんな飛鳥の歴史を見守ってきたのだった」とあった。
蹴鞠や暗殺(乙巳(いっし)の変)の話は有名で知っていたが、そこがその重要な場所だったのかと再認識した次第であった。仕事柄、土管に興味をそそられた。そんな昔に土管があったのか。なぜ上水道とわかるのか。土管なら下水道ではないのかと疑問が湧いた。上下水道の歴史に詳しい知人に聞いてみたが、飛鳥寺の水道管は知らないという。上下水道の本にも出ていなかった。インターネットで調べれば出てくるのでは、「飛鳥寺 土管」で検索すると、かなり載っていた。鉄鋼や陶管(セラミック管)のメーカーのホームページに説明があった。 
写真―1・・・飛鳥寺西門跡の案内板(発掘時の写真を掲載。手前の横一直線に並んでいるのが土管水道管)  -写真拡大
 
 「飛鳥寺跡から1996年に日本最古と思われる土管が2種類出土した。縦半分に割って切り離したものが丸瓦である。それより以前には古墳で円筒埴輪が排水管に転用されていた例がある」。別のHPには「川原寺(現・弘福寺)から直径50センチ、長さ1メートルの土管発掘。回廊の築地塀の下から出たので、寺の中の雨水等を外に出す排水管であろう」とあった。川原寺跡は飛鳥寺と約500メートルの距離。飛鳥寺は百済の技術者の指導でつくられたので、これらの土管は朝鮮半島からきた技術でつくられたものであろう。
  飛鳥寺跡から出土した土管がどうして上水道管なのか、明日香村教育委員会(文化財課)を訪ねて聞いてみた。担当者は「土管の内径は10センチほどで、下水を流すと詰まりやすいので下水道管と考えにくく上水道管とした。土管は川原寺跡でも発掘されているが、それは口径が大きいので下水道管といえる。その後、飛鳥寺西門跡の北側、南側でも同じ土管が発掘され、これらは南北に一直線に並んでいるので、つながっている可能性がある。 この土管水道管がどこからどこに延びているのか、発掘しないと断定しにくい」という。(写真―2)
 大阪市水道局OBの水道史研究家(故人)の調べでは、古墳時代に木管の水道管が出土しており、これが日本最古の水道管となろうが、土管水道管では飛鳥寺西門跡、土管下水道管では川原寺跡のものが最古級ではなかろうか。古代史はロマンが尽きない。
写真-2・・飛鳥寺西門跡から出土した土管の水道管(飛鳥資料館)-写真拡大-